カーメネフ
かーめねふ
Лев Борисович Каменев/Lev Borisovich Kamenev
(1883―1936)
ロシアの革命家、政治家。ユダヤ人。モスクワ出身で、モスクワ大学在学中の1901年にロシア社会民主労働党に入り、以後ロシア各地と国外で活動。14年に逮捕され、翌年シベリアに流刑となった。17年の二月革命後、流刑地から首都ペトログラード(現サンクト・ペテルブルグ)に帰り、『プラウダ』編集部で活動した。七月事件後一時投獄された。十月革命前夜に蜂起(ほうき)反対を主張したことは党歴に重大な傷となった。翌年からモスクワ・ソビエト議長を務め、レーニン、トロツキー、スターリン、ジノビエフとともに5名の政治局員の一人であった。レーニンの晩年における後継者をめぐる党内対立では、スターリン、ジノビエフと組んでトロイカ(三人組)体制をとりトロツキーの失墜に一役買ったが、25年を転機にスターリンの党主流と対立を深め、党内闘争に敗北し、27年に党から除名された。その後復党したが、34年のキーロフ暗殺事件に関連して逮捕され、35年に禁固刑、翌年に死刑を宣告され、処刑された。1956年のスターリン批判後も名誉回復されなかったが、1988年ペレストロイカに伴い名誉回復された。
[原 暉之]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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カーメネフ
Lev Borisovich Kamenev
生没年:1883-1936
ソ連邦の革命家,政治家。本名ローゼンフェリドRozenfel'd。ユダヤ人。技師の子として生まれ,1901年モスクワ大学在学中にロシア社会民主労働党に入党,各地で地下活動を続ける。17年二月革命後,流刑地のシベリアから戻り,首都ペトログラードのボリシェビキ党指導者となるが,当初は臨時政府条件付き支持の立場をとった。十月革命準備の過程でジノビエフと共に武装蜂起に反対。蜂起後は他の社会主義政党との連立を唱えた。革命後は党政治局員その他の重要な役職を占めて活躍。20年代の党内闘争における位置は,ほぼジノビエフと同じであるが,拠点はモスクワにあり,ジノビエフよりも知識人的であり穏健であった。27年末に党を除名されたが,自己批判して復党を許される。30年代初頭には閑職についていたが迫害も絶えず,35年逮捕され,第1回裁判。36年には〈モスクワ裁判〉の被告となり,処刑された。88年,司法的に名誉回復された。
執筆者:塩川 伸明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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カーメネフ
Kamenev, Lev Borisovich
[生]1883.7.22. モスクワ
[没]1936.8.25.
ソ連の政治家。旧名 L.B. Rosenfeld。ユダヤ人技師の子。 1901年ロシア社会民主労働党に入党し,党分裂後はボルシェビキとして活動。 08~14年国外で活動ののち,機関紙『プラウダ』の編集に従事した。第1次世界大戦に際しては敗戦主義宣言の組織化に努力し,流刑を経たのち,党中央委員に就任。十月革命には武装蜂起に反対したが,革命後,党政治局員,モスクワ・ソビエト議長,労働国防会議議長などを歴任。 V.I.レーニンの死後,「一国社会主義」論をめぐって I.スターリンと対立,27年党を除名された。翌年復党,29年中央利権委員会議長となったが,32年に再び除名,35年反革命陰謀の理由で5年の禁錮刑,36年合同本部事件の中心人物として G.ジノビエフらとともに処刑された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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カーメネフ
ソ連の政治家。本名ローゼンフェリドRozenfel'd。若くして革命運動に参加。1917年十月革命のときには党最高指導者の一人であったが,ジノビエフとともに武装蜂起(ほうき)に反対。レーニン死後スターリン,ジノビエフとともに国政を握ったが一国社会主義に反対し,1936年ジノビエフとともにスターリンにより粛清された。1988年名誉回復。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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カーメネフ
Lev Borisovich Kamenev (本名 Rozenfel'd)
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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カーメネフ
Lev Borisovich Kamenev
1883〜1936
旧ソ連の政治家
ボリシェヴィキとなり,パリに亡命したが,第一次世界大戦で帰国し,シベリアに流刑された。三月革命の勃発で帰り,十一月革命でレーニンの蜂起に反対し,中央委員を辞任した。しばしばレーニン路線に反対したが党内有数の理論家として,ソヴィエト政権の成立後,党と政府の要職を歴任。レーニンの死後,党内論争でスターリンと対立,反対派(トロツキー派)として除名され,のち復党するも,1930年代の反革命公判において反ソ陰謀の責で処刑された。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のカーメネフの言及
【ソビエト連邦】より
…その直後レーニンは発作を起こして廃人となり,1年後に死去した。この間スターリンは[ジノビエフ],[カーメネフ]と協力して[トロツキー]派を抑え込むことに成功した。次いで[一国社会主義]論を採ったスターリンと[ブハーリン]は提携して,ジノビエフ,カーメネフ派と争い,27年にはトロツキー派とも組んだこの合同反対派を完全に失脚させた。…
【ロシア革命】より
… この9月,潜行中のレーニンは臨時政府打倒の武装蜂起の決行を同志に提案したが,党中央委員会はただちには賛成しなかった。とくに[ジノビエフ]と[カーメネフ]という古参の大幹部は強く反対し,党外でその態度を表明した。権力掌握への準備は首都ソビエトの議長となった[トロツキー]の考えで進められ,10月12日反革命からのソビエトの防衛という目的で軍事革命委員会が設置された。…
※「カーメネフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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