改訂新版 世界大百科事典 「ジュネーブ軍縮委員会」の意味・わかりやすい解説
ジュネーブ軍縮委員会 (ジュネーブぐんしゅくいいんかい)
第2次世界大戦後,軍縮交渉は国連の場でなされたが,この問題が米ソのヘゲモニー確立の好材料と化したため,国連の機構外に東西交渉の場を設けようという動きが生じ,1958年9月,米英仏ソの四大国の合意により,東西両陣営それぞれ5ヵ国(アメリカ,フランス,イギリス,カナダ,イタリア,ソ連,ポーランド,チェコスロバキア,ルーマニア,ブルガリア)からなる〈10ヵ国軍縮委員会〉が発足し,60年3月から,ジュネーブにおいて審議を開始した。しかし,U2型機事件がおこり,同年6月同委員会は決裂した。米ソ両国の交渉の結果,東西両陣営を仲介するねらいで中立非同盟の8ヵ国(ブラジル,ビルマ(現ミャンマー),エチオピア,インド,メキシコ,ナイジェリア,スウェーデン,アラブ連合)を加えた〈18ヵ国軍縮委員会Eighteen-Nation Disarmament Committee〉(略称ENDC)が設置され,62年3月から審議を開始した。69年には,さらに8ヵ国(日本,モンゴル,オランダ,ハンガリー,パキスタン,モロッコ,ユーゴスラビア,アルゼンチン)が加入し,ENDC加入国は26ヵ国となり,名称を〈軍縮委員会会議Conference of the Committee on Disarmament〉(略称CCD)と改めた。さらに74年,東西両ドイツ等5ヵ国が加わり,加入国は31ヵ国となった。
ENDCとCCDは,一貫してジュネーブで開催されていたことから,通称ジュネーブ軍縮委員会と呼ばれている。ジュネーブ軍縮委員会は国連の下部機関ではないが,経費は国連によって賄われた。また,審議の結果は国連総会に報告され,他方で国連総会で採択された軍縮決議は,検討のため同委員会に送られた。しかし,ENDCもCCDも,米ソの共同議長制を採用しており,非同盟・中立諸国の活躍があったとはいえ,実情は米ソの合意が優先した。このため,ENDCの創設からCCDの終末まで会議の開催回数は通算805回に及んだが,あまり成果をあげるにはいたらず,同委員会はしばしば〈軍縮決議の墓場〉といわれた。
しかし,米ソの合意が成立する場合には限定的ながらも軍備管理協定の成立に寄与したことも事実である。ENDC期の部分的核実験停止条約(1963),核不拡散条約(1968),およびCCD期の海底軍事利用禁止条約(1971),生物(細菌)・毒素兵器禁止条約(1972),環境破壊兵器禁止条約(1977)などがその例である。
1978年春の第2回国連軍縮特別総会で,CCDは発展的に解消,新たに〈軍縮委員会The Committee on Disarmament〉(略称CD)の設置が決議された。構成は核保有国5ヵ国(アメリカ,イギリス,フランス,中国,ソ連)と非保有国35ヵ国の計40ヵ国からなり,議長は当番制,会議は公開となった。ENDC以来,欠席を続けていたフランスが出席し,中国も80年3月より参加した。なお,84年に〈軍縮会議The Conference on Disarmament〉(略称CD)と改称された。日本は1969年のENDC加入以来,一貫してメンバーとして活動を続け,CDの82年4月会期では議長を務めた。
→軍縮 →国連軍縮委員会
執筆者:武山 真行
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