出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
明治〜昭和期の外交官,子爵 外相;枢密顧問官;貴院議員(勅選)。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
外交官。慶応(けいおう)2年3月10日上総(かずさ)国(千葉県)に生まれる。旧姓大和久(おおわく)。帝国大学法科大学卒業後1891年(明治24)外務省に入り、石井邦猷(くにみち)の養子となる。通商局長、次官、駐仏大使を歴任後、1915年(大正4)第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の外相に就任、日露協約の締結に尽力。1917年アメリカ特派大使として石井‐ランシング協定を結ぶ。1920年駐仏大使となり、ベルサイユ体制下の国際会議で平和条約実施委員長、国際連盟日本代表、同議長、ジュネーブ軍縮会議日本代表などを務め、1927年(昭和2)退官。以後1929~1945年枢密顧問官、1933年世界経済会議日本代表を務め、外交界の長老として重きをなす。昭和20年5月の東京大空襲の際に行方不明となる(5月26日没)。
[大森とく子]
『石井菊次郎著、鹿島平和研究所編『外交随想──石井菊次郎遺稿』(1967・鹿島研究所出版会)』
明治期から昭和期の外交官。千葉県出身。1890年帝大法科大学卒業,同年外務省に入る。パリ,北京などに在勤し,通商局長,第2次西園寺公望内閣の林董外相のもとで次官,さらに1912年駐仏大使となる。第1次大戦中の14年大隈重信内閣の外相に就任し,日露協約締結など戦時外交に苦心する。17年特派大使として渡米,石井=ランシング協定に調印,翌年駐米大使となり,シベリア出兵に関する日米交渉にあたったが,18年辞任。その後は国際連盟代表など国際会議の日本代表として活躍した。この間1911年に男爵,15年には子爵。29年枢密顧問官となる。45年の東京大空襲下行方不明となる。
執筆者:由井 正臣
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1866.3.10~1945.5.26
明治~昭和前期の外交官。上総国生れ。東大卒。1915年(大正4)第2次大隈内閣の外相。17年特派大使として渡米,同年11月石井・ランシング協定を結んで満蒙における日本の特殊権益を認めさせた。駐米大使をへて第1次大戦後には国際連盟の日本代表となるなど,外交界の穏健派の長老として活躍した。29年(昭和4)以降は枢密顧問官。東京の空襲で行方不明。
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…第1次大戦中,アメリカと日本の間に結ばれた中国に関する共同宣言。二十一ヵ条要求など第1次大戦中の日本の中国侵略に不安をもったアメリカは,1917年の対独参戦を機に日本からの特使派遣を要請し,日本は前外相石井菊次郎を特使として派遣した。同年9月,石井は国務長官R.ランシングと交渉を開始,日本の中国における特殊地位を強調した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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