ジューコフ(読み)じゅーこふ(その他表記)Георгий Константинович Жуков/Georgiy Konstantinovich Zhukov

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジューコフ」の意味・わかりやすい解説

ジューコフ
じゅーこふ
Георгий Константинович Жуков/Georgiy Konstantinovich Zhukov
(1896―1974)

ソ連軍人元帥。中部ロシア、カルガ州の小村に生まれる。第一次世界大戦時に召集され、革命後赤軍に入隊。また1919年に共産党入党。1939年夏、駐モンゴルソ連第1軍の司令官としてノモンハンの戦闘を指揮、日本軍に大打撃を与えた。独ソ戦開始時は参謀総長兼国防人民委員代理。開戦後は各方面軍の総司令官としてスターリングラード(現ボルゴグラード)攻防戦やレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)包囲突破作戦などを指揮、さらにベルリン攻略戦をも指揮して名をはせた。1942年8月から戦争終結まで国防人民委員第一代理兼最高総司令官(スターリン)代理をも務めている。戦後、駐独ソ連軍最高総司令官を経て、一時、地上軍総司令官兼軍事力省次官となったが、スターリンに左遷された。スターリン死後、中央に復帰し、1955年国防相。1957年にフルシチョフの側についてマレンコフらの「反党グループ」追放に協力、党中央委幹部会員となった。しかし、同年10月、党の指導を無視したと非難されて引退した。フルシチョフ退陣後、復権。死後クレムリンの壁に葬られた。

[藤本和貴夫]

『清川勇吉・相場正三久・大沢正訳『ジューコフ元帥回想録――革命・大戦・平和』(1970・朝日新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジューコフ」の意味・わかりやすい解説

ジューコフ
Zhukov, Georgii Konstantinovich

[生]1896.12.1. カルガ
[没]1974.6.18.
ソ連の軍人。軍人で最初のソ連共産党中央委員会幹部会員。 1915年第1次世界大戦中に帝政ロシア軍に服役。 18年赤軍に参加,国内戦では騎兵隊を指揮。のちドイツへ留学,軍事科学を学ぶ。フルンゼ陸軍大学校で機械化戦術を専攻,31年同校卒業。 39年ノモンハン事件では近代化された機甲部隊を駆使,日本軍を大敗させた。 41年赤軍参謀総長,第2次世界大戦開戦後の 41年モスクワ防衛軍司令官,中部戦線司令官,43年元帥。スターリンの最高司令部の主要メンバーとしてほとんどすべての重要作戦に参与。 45年4月にはみずからベルリン攻撃を指揮し,ソ連占領軍司令官としてドイツに駐留。終戦後は連合国対独占領管理理事会ソ連代表。 46年モスクワに帰還名声を恐れたスターリンに左遷されたが,スターリン死後,軍の有力者として中央に復帰。 55年国防相に就任。 N.フルシチョフを支持して,57年党中央委員会幹部会の正式メンバーとなった。しかし軍の自律を主張し続けたため,同年 10月国防相を解任され,党の要職からもはずされた。レーニン賞を6回受賞。

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百科事典マイペディア 「ジューコフ」の意味・わかりやすい解説

ジューコフ

ソ連の軍人。ロシア人。元帥。ロシア革命期に赤軍に参加。1939年ノモンハン事件で戦車部隊を指揮し,第2次大戦中は参謀総長となり,自らモスクワ防衛,ベルリン攻撃を指揮した。戦後は初代駐独軍司令官,地上軍総司令官となり,一時不遇だったがスターリン死後国防相,党中央委員会幹部会員となった。軍内部の信望がきわめて厚かったため,フルシチョフら首脳から危険視され,1957年解任された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジューコフ」の解説

ジューコフ
Georgii Konstantinovich Zhukov

1896~1974

ソ連軍人。ノモンハン事件で勝利したソ連側司令官で,大祖国戦争では最高軍司令官代理。最初の駐独ソ連軍総司令官。第二次世界大戦後は不遇で,スターリン死後国防相に返り咲いたが,1957年に解任。

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