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ジロンド派 ジロンドはGirondins

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ジロンド派
ジロンドは
Girondins

フランス革命の立法議会国民公会党派。この名称はジロンド県選出議員の多かったことによる。また,指導者 J.ブリッソーの名を取ってブリッソー派とも呼ばれる。おもなメンバーは M.ガデー,A.ジャンソネ,P.ベルニョ,M.コンドルセらで立法議会の左翼に位置し,ジャコバン・クラブ (→ジャコバン派 ) やロラン夫人のサロンで会合した。 1791年末ジロンド派は対オーストリア戦争に賛成したが,戦争はジロンド派が予期したようには進行せず,彼らが組織した 92年6月 20日のデモも不成功に終った。以後ジロンド派の勢力は後退しはじめ,8月 10日の王権停止の蜂起は彼らの介入なしに遂行された。このようなジロンド派と民衆 (→サン=キュロット ) との断層は同年の九月虐殺 (第1次恐怖政治) によって激化し,国民公会における山岳派との対立に発展していった。両者の争いは国王ルイ 16世処刑問題で激しさを加え,また 93年春の戦線での敗北はジロンド派に対する信用を失墜させ,祖国と革命の防衛者としての資格を失ったジロンド派は,この年の6月追放され,山岳派の独裁が始った。

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デジタル大辞泉の解説

ジロンド‐は【ジロンド派】

《〈フランス〉Girondinsフランス革命期の立法議会国民公会における党派。指導者のうち三人がジロンド県出身の議員であったからいう。商工業ブルジョアジーを代表する穏健な共和主義派で、ジャコバン派と対立。一時は多数を占めたが、1793年、国民公会から追放された。ジロンド党。→ジャコバン派

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百科事典マイペディアの解説

ジロンド派【ジロンドは】

フランス革命期の商工業ブルジョアジーを代表する政治結社。Girondins。ジロンド県選出の議員が多かったことからこう呼ばれた。立法議会では左派。上層ブルジョアジーを代表する右派のフーイヤン派(フーイヤン・クラブ)との対立に勝ち対オーストリア戦争を実現させた。
→関連項目右翼ジャコバン・クラブマラロラン

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世界大百科事典 第2版の解説

ジロンドは【ジロンド派 Girondins】

フランス革命中に立法議会の左翼,国民公会の右翼を占めた政治グループ。ブリソベルニオー,イスナール,コンドルセ,ガデ,ジャンソネなどの議員や内務大臣ロランを主たる指導者とし,大港湾都市の銀行家や大商人の利益を代表するブルジョア共和派。革命当時はブリソ派とかロラン派といわれたが,ジロンド県出身の議員が多いことから19世紀になってジロンド派とよばれるようになった。1791年末から92年春に,外国君主と結ぶ国王に退位を迫り,国内に経済繁栄をもたらそうとしたジロンド派は,盛んに開戦論を展開し,92年3月,ブリソを首班とする最初のジロンド内閣を組織すると,すぐにオーストリアとの革命戦争に突入した。

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大辞林 第三版の解説

ジロンドは【ジロンド派】

フランス革命時代の商工業ブルジョアの党派。ジロンド(Gironde)県出身議員にちなむ命名。穏健な共和主義を唱え革命初期は有力だったが、ジャコバン派と対立し、1793年国民公会から追放された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ジロンド派
じろんどは
Girondinsフランス語

フランス革命期の立法議会および国民公会における党派。主として商工業ブルジョアジーを代表する自由主義の党派で、ブリソ、コンドルセ、ベルニオー、ガデ、ジャンソネなどがもっとも著名かつ活動的なメンバーで、このうち後の三者がジロンド県選出の議員であったことからジロンド派とよばれる。しかし、この派名がもっとも代表的な名称として統一されたのは、19世紀になってラマルチーヌの『ジロンド派の歴史』がベストセラーとなって以後のことであり、革命の当時にあってはむしろ有力メンバーの名によってよばれることが多く、とくにブリソ派という呼び方がもっとも多かった。1791年6月の国王ルイ16世のバレンヌ逃亡事件後のフイヤン派の分裂でジャコバン・クラブの指導権を握り、同年秋からの立法議会では左翼を形成し、分裂後のフイヤン派と対立し、国王の反革命的な実体を暴き出し、かねて貿易上の利害を守るために対外戦争を推進した。そしてジャコバン・クラブ内ではロベスピエールら後の山岳派(モンタニャール)の反対を抑え、92年春、自派に近い政治家を大臣に選ぶことを国王に強制し、ついに対オーストリア宣戦布告をかちとった。しかし、戦争指導に失敗し、そのうえ戦争遂行をサボタージュする国王その他の反革命勢力との決定的対決もできず、同年8月10日の人民蜂起(ほうき)にも反対した。以後、蜂起コミューンおよびこれと結ぶ山岳派と争い、国民公会の初期には公会で優勢を守りえたが、ルイ16世の死刑をめぐる討論で敗勢を示し、93年5月31日~6月2日の人民蜂起で政権の座を追われ、多くは逮捕されて死刑に処されたほか、逃亡して地下に潜み、自殺に追い込まれたものもある。山岳派の独裁と恐怖政治を耐えて生き延びたものは、94年の「テルミドールの反動」に一役買い、以後権力を握ったいわゆるテルミドール派の一翼として政治活動を再開した。[樋口謹一]

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世界大百科事典内のジロンド派の言及

【国民公会】より

…1792年9月21日の第1回会議から95年10月26日の解散まで,3時期に分けられる。第1期は,約750名の議員のうち過半数を占める中間派(〈平原派la Plaine〉とか〈沼派le Marais〉と呼ばれた)をはさんで右派のジロンド派と左派の〈山岳派〉が対立した時期である。はじめジロンド派は山岳派に対して優勢であったが,対外戦争の敗北,国内の反革命の激化と社会経済危機などの内外の革命の危機に有効に対処しえず,しだいに中間派の支持を失い,また立憲君主派や王党派との妥協をはかったために,93年6月2日,パリ民衆の包囲のなかで議会から追放された。…

【山岳派】より

…しかし,93年以降には,ジャコバン・クラブはもっぱら山岳派を支持してその社会的基盤になったから,両者は表裏一体の関係にあったといえる。 山岳派は1792年の秋から右翼のジロンド派と激しく対立し,両派の中間には平原派または沼沢派と呼ばれる浮動的グループがあった。山岳派とジロンド派は,出身階層の点では大きな差異はなく,社会的な立場の点でも,ジロンド派がとくに貿易業者や大商人と強く結びついていたのに対して,山岳派はそれよりやや下の中産層と結びついていたという程度の差しかなく,両派はいずれも基本的にはブルジョアジーの利害を代表していた。…

【フランス革命】より

…同年9月,さきに91年の憲法によって成立していた議会(立法議会)は解散され,新たに普通選挙によって国民公会が召集され,9月22日をもって共和政が樹立された(第一共和政)。国民公会に代表されていたのは依然としてブルジョアジーであったが,その内部には,民衆や農民との同盟を拒否してブルジョアジーだけの利害を守ろうとする右翼のジロンド派と,革命遂行のためには民衆や農民との同盟が不可避であることを認める左翼の山岳派とがあり,後者は,パリに本部を置き全国に下部組織をもつジャコバン・クラブと密接につながっていた。 ジロンド派と山岳派との対立がしだいに激化するなかで迎えた1793年は,生まれたばかりのフランス共和国が内外両面にわたって深刻な危機にさらされた年であった。…

※「ジロンド派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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