イタリアの天文学者。1854年トリノ大学土木工学科を卒業後、同大学で数学を教えながら近代言語学と天文学を研究。1857年ベルリン天文台でエンケに、ついでプルコボ天文台でF・シュトルーベに師事。1860年帰国後ミラノのブレラ天文台に着任。1862年同天文台長。1900年に台長を勇退し、同地で余生を送る。1861年に小惑星ヘスペリアを発見。1866年8月のペルセウス流星群の周期軌道を計算して、1862年出現の第三彗星(すいせい)のそれと一致することを確認し、彗星が流星群の母体であると判定した。また、しし座流星群は1866年出現の第一彗星の分身であることを明らかにした。1872年この発見により王立天文協会の金賞を受けた。また1877年火星の表面に網目状の線条を検出し、これを運河と名づけて問題を投げかけた。
[島村福太郎]
イタリアの天文学者。1854年トリノ大学を卒業後,ベルリン,プルコワの天文台に学んだ。60年に帰国してミラノのブレラ天文台の観測技師となり,1862-1900年に同天文台長を務めた。1861年に小惑星ヘスペリア(第69番)を発見,また64年にペルセウス座流星群とタトルすい星の軌道が一致することを見いだしたのを皮切りに,66年には広く流星群とすい星の関係を解明して近代流星天文学の基礎を築いた。
スキャパレリは望遠鏡による惑星面観測の大家としても著名である。77年に口径22cmの屈折望遠鏡で火星面を観測し,火星の地形を海や大陸に分類して火星図を作ったが,その際,火星面上を縦横に走る“カナル(運河)”が大きな話題となり,火星人のロマンにまで発展した。そのほかに水星面の斑点の観測から水星の自転周期を公転周期と同じ88日と発表した。しかし,1974年にマリナー10号が水星に接近して,水星の自転周期は59日であることがわかった。スキャパレリは晩年に天文学史に興味をもって,1899-1907年にわたってバビロニア,ユダヤなどの古代の天文学史を研究し,《旧約聖書の天文学》(1903)などの著述がある。
執筆者:堀 源一郎
フランスのファッション・デザイナー。ローマで生まれ,結婚してアメリカに住んだが,離婚後,1927年パリに移住した。カラーとネクタイをだまし絵風に編みこんだセーターが認められ,店を開いた。33年,パゴダ・スリーブを発表し,一躍人気デザイナーになる。肩の張ったシルエットは30年代の女性の代表的なイメージとなった。20年代をシャネルの時代とするなら,30年代はスキャパレリの時代であった。2人は激しく張り合い,シャネルはこの外国からきた女をデザイナーとして認めなかった。スキャパレリは親しくしていたダリをはじめとするシュルレアリストのグループのアイデアをとり入れた。彼女のよく用いた色を,人々は〈ショッキングピンク〉と呼んだ。38年には占星術のイメージとして,月や星など宇宙的なテーマをデザインした。第2次世界大戦中はアメリカに逃れ,戦後パリに戻り,新しいコレクションを発表したが不評で,54年に店を閉じた。
執筆者:海野 弘
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「スキアパレリ」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…フランスの学者フォントネルが《世界の多数性》(1686)において,他の惑星にも生命が存在しうると論じ,天体観測の進歩とともに,宇宙人への関心は少しずつ高くなっていった。1835年に新聞《ニューヨーク・サン》が大望遠鏡による月人観測のうそ記事を掲載して大騒ぎとなり,77年にG.V.スキャパレリが火星の筋模様を発見し,P.ローエルが《火星》(1895)という本でそれを運河であると主張してからは宇宙人の存在に関する議論が絶えることはなくなった。それも長い間火星人に関心が集中し,H.G.ウェルズが《宇宙戦争》(1898)において,重力と酸素量の関係で〈タコ型〉の火星人を想像してからは,この形の宇宙人が人々に親しまれるようになった。…
※「スキャパレリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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