シュトルーベ(読み)しゅとるーべ(英語表記)Otto Struve

日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュトルーベ」の意味・わかりやすい解説

シュトルーベ(Otto Struve)
しゅとるーべ
Otto Struve
(1897―1963)

ロシア(現、ウクライナ)生まれのアメリカの天文学者フリードリヒ曽孫(そうそん)で、カルコフに生まれる。同地の大学で天文学を修めたが、途中第一次世界大戦に従軍。ロシア革命後トルコに亡命し、1921年叔母の紹介でヤーキス天文台のフロストEdwin Brant Frost(1866―1935)に招かれ、恒星の分光学的研究に着手、1923年シカゴ大学で学位を得、1927年アメリカ市民となり、1930年準教授、1932年ヤーキス天文台長、1939年マクドナルド天文台を完成、1959~1962年国立電波天文台長。その研究成果は広範で、連星・特異星・早期型星・変光星星間物質などについて理論、観測両面の活躍をしている。また惑星および恒星の進化論にも貢献した。国際天文学連合の会長、王立天文協会金賞の栄誉を受けた。

[島村福太郎 2019年1月21日]


シュトルーベ(Friedrich Georg Wilhelm von Struve)
しゅとるーべ
Friedrich Georg Wilhelm von Struve
(1793―1864)

ドイツ生まれのロシアの天文学者。ハンブルク近くのアルトナに生まれる。ドルパト(タルトゥ)在住の兄のもとに移住、同地の大学で言語学を修め、転じて1813年天文学の学位を得、教授に就任。1817年同地天文台長。1838年ロシア皇帝の招請プルコボ天文台の建設に努力し、1839年完成とともに台長に任命され、死の2年前まで観測に精進した。終生の業績は、精密測微計を駆使して二重星の継続観測に従事し、1822年および1827年の再度にわたり『二重星目録』を公刊、収録個数は3112対に及び、これらは分離角によって類別されている。加えて518組の多重星を発見した。1839年同器を用いてベガ織女星)の年周視差0.264秒角を検出した。また1816~1850年父子2代にわたりノルウェーからドニエプル河口までの子午線測量事業に献身した。子孫4世にわたる天文学一門の宗祖である。

[島村福太郎]


シュトルーベ(Gustav von Struve)
しゅとるーべ
Gustav von Struve
(1805―1870)

ドイツの政治家。1840年代にジャーナリストとして西南ドイツで反政府運動を指導、1848年三月革命の勃発(ぼっぱつ)後「準備議会」で連邦共和制を提唱、その実現のため4月に南バーデンで蜂起(ほうき)、さらに1849年5月にも帝国憲法戦役で革命に身を投じた。その敗北後、スイスを経てアメリカに亡命(1851~1863)、この間南北戦争において北軍側で戦った。

[末川 清]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュトルーベ」の意味・わかりやすい解説

シュトルーベ
Struve, Otto

[生]1897.8.12. ロシア帝国,カールコフ
[没]1963.4.6. アメリカ合衆国,カリフォルニア,バークリー
ロシア生まれのアメリカ合衆国の天文学者。フリードリヒ・G.W.シュトルーベの曾孫。カールコフ大学で天文学を専攻,1920年ロシア革命の際トルコに逃れ,翌 1921年アメリカに亡命 ,シカゴ大学に学ぶ。ヤーキズ天文台の研究員として天体分光学の研究を開始。同天文台台長 (1932) ,テキサス大学マクドナルド天文台台長 (1939) ,シカゴ大学天文学主任教授 (1947) ,カリフォルニア大学ロイシュナー天文台台長 (1950) ,グリーンバンクの国立電波天文台台長 (1959~62) ,国際天文学連合総裁 (1952~55) 。恒星からくる光の分光分析を行ない,スペクトル吸収線から水素をはじめとする星間物質の存在,恒星の自転の存在とその周期,変光星の存在を明らかにし,電波天文学発展の主役として活躍。ほかに星の進化理論も提出した。700に及ぶ論文を発表。主著『星の進化』Stellar Evolution (1950) ,『宇宙』The Universe (1962) 。

シュトルーベ
Struve, Friedrich Georg Wilhelm von

[生]1793.4.15. シュレースウィヒホルシュタイン,アルトナ
[没]1864.11.23. ペテルブルグ
ドイツ生まれのロシアの天文学者。4代続いた天文学一家の初代で,「シュトルーベ王朝」と呼ばれることがある。ナポレオン占領下のドイツを逃れ,ドルパト大学 (エストニアのタルトゥ) に入学 (1808) してからのちはロシアで過ごす。ドルパト大学の天文学および数学教授 (1813) ,同大学天文台台長 (1817) ,プルコボ天文台台長 (1839) などを歴任。 1824年に,当時としては最大の反射望遠鏡を用いて,約 12万の恒星を観測,記録し,約 3000の二重星 (→重星 ) (うち 75%は新発見) を記録している。彼の業績によって二重星に関する近代的な研究が始まったといえる。ベガ (織女) の視差の測定も名高い。主著『二重星の精密観測』 Stellarum duplicium mensurae micrometricae (1837) 。なお,1816~55年に,シュトルーベを中心としてノルウェーから黒海にかけての 10ヵ国,34ヵ所に設定された観測点が,2005年シュトルーベの測地弧として世界遺産の文化遺産に登録された。

シュトルーベ
Struve, Gustav von

[生]1805.10.11. ミュンヘン
[没]1870.8.21. ウィーン
ドイツの急進的民主主義者。バーデンで弁護士となり,みずから刊行した『マンハイム新聞』で急進的な論陣を張り,しばしば禁錮刑の宣告を受ける。 1847年9月 F.ヘッカーらと急進的なオッフェンブルク集会を指導。三月革命が起ると,48年4月共和国の建設を企ててバーデンに蜂起したが鎮圧され (ヘッカー一揆) ,再び9月にも蜂起。翌年の憲法闘争にも参加したが失敗,スイス,イギリスを経てアメリカに亡命,南北戦争に従軍,63年帰国した。著書に『世界史概説』 Allgemeine Weltgeschichte (9巻,1853~60) がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「シュトルーベ」の意味・わかりやすい解説

シュトルーベ
Gustav von Struve
生没年:1805-70

ドイツの共和主義者で,1848年革命家の一人。ロシア人外交官を父としてミュンヘンに生まれる。法律を学びいくつかの官職に就くが,その政治的見解のために周囲と衝突を繰り返してはその職を辞す。1845年《マンハイム・ジャーナル》紙の編集を担当したが,同紙の反体制的傾向のためにたびたび投獄される。48年革命に際しては,4月,9月の2度にわたって共和国樹立を目指した武装蜂起を企てたがいずれも失敗し,5年4ヵ月の禁固刑を受けるが,翌年春のドイツ国憲法問題に端を発したバーデン蜂起により解放される。革命敗北後は,アメリカへ亡命し,南北戦争に北軍の将校として参加した。
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367日誕生日大事典 「シュトルーベ」の解説

シュトルーベ

生年月日:1805年10月11日
ドイツの急進的民主主義者
1870年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のシュトルーベの言及

【花】より

…狭義には被子植物の生殖器官をいうが,もっと広い使われ方をする場合もある。例えばソテツ,イチョウ,マツなどの裸子植物の生殖器官を含めたり,さらには胞子生殖をするツクシの穂をも花とする見解もある。
[花の概念]
 被子植物の花は見かけ上はさまざまな形があるものの,基本的には同じで,小胞子葉と大胞子葉にそれぞれ相同なおしべとめしべ,さらに萼と花冠があり,それらが付着する花托からなっている。裸子植物の生殖器官には,萼や花冠はないが,軸の先に小胞子葉や大胞子葉が集まったものであり,シダ植物の胞子囊穂(ほうしのうすい)も胞子葉や胞子囊托が集まったものである。…

※「シュトルーベ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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