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スペランスキー Speranskii, Mikhail Mikhailovich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

スペランスキー
Speranskii, Mikhail Mikhailovich

[生]1772.1.12. チェルクティノ
[没]1839.2.23. ペテルブルグ
ロシアの政治家。伯爵。 1808年より皇帝アレクサンドル1世の側近として,内政の改革に従事。 09年三権分立を基礎とする有名な「スペランスキーの国家改造案」を作成したが,採用されずに終った。 12年に免職となり流刑に処されたが,その後政界に復活し,19年にはシベリア総督に任じられた。その後 21年首都ペテルブルグに戻り,国家評議会議員となり,30年には 45巻から成る『ロシア帝国法律大全』 Polnoe sobranie zakonov Rossiskoy imperiiの編纂を指導した。

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世界大百科事典 第2版の解説

スペランスキー【Mikhail Mikhailovich Speranskii】

1772‐1839
ロシアの政治家。中央神学校卒業後,同校教師(物理,数学,修辞学担当)。啓蒙思想,自然科学等に造詣が深かった。クラキン公に認められ,パーベル1世時代に官界に入る。豊かな分析力,平明な文章力など,当時のロシアで抜群の官僚的資質があったため,アレクサンドル1世に抜擢されて新しい体制づくりに尽力。伝統的貴族国家の中で,上流社会に入らず,孤独の中にひたすら帝意にこたえようと仕事に専念した。有効で整然とした行政機構づくりを念願とし,国務会議を創設し,内閣制度,官僚制の基礎をつくった。

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世界大百科事典内のスペランスキーの言及

【ロシア帝国】より

… これに続いて法案の最終審議を主任務とする国務評議会gosudarstvennyi sovetが設けられ,元老院は一種の最高法廷となる。この体制が1905年まで続くが,この改革はアレクサンドルがスペランスキーの改革案をいわばつまみ食いしたもので,改革案にあった郷・郡・県・国の段階的代議制は拒否された。みずから招集した国民各層の代表からなる法典編纂委員会に有名な〈訓令(ナカース)〉を与えて法治主義の原則を説いたエカチェリナ2世がすでにそうであったが,彼女のもとで教育された孫のアレクサンドル1世(在位1801‐25)も君主専制の原則は譲らず,これは最後のニコライ2世まですべての皇帝が同様であった。…

※「スペランスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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