改訂新版 世界大百科事典 「法典編纂」の意味・わかりやすい解説
法典編纂 (ほうてんへんさん)
codification
国家による体系的・組織的な成文法規の作成をいい,社会の変動に応じて個々の法律や慣習などを整理統一する目的で行われる場合もあるが,とくに革命などの政治的大変動ののちには新しい法原理に基づく大規模な法典編纂が行われる。19世紀初頭の〈ナポレオン法典〉は,市民法典の先駆として歴史的に有名であり,ヨーロッパ大陸諸国をはじめドイツや日本の法典編纂にも大きな影響を与えた。
ヨーロッパ
抽象的法原理,法命題を含む包括的体系的な立法をもって法典編纂の定義とすれば,かかる法典編纂の第一波はヨーロッパでは18世紀に到来した。モンテスキューの《法の精神》(1748)はじめ数々の立法理論が提唱されたが,そこには法の国家的統一,明瞭で概観しうる法,市民の権利保障と法的安定,裁判官の法律への拘束などの要求が表現された。公私法を含む包括的法典を作るか,民法のような特定法分野について個別的法典を作るかも議論された。法典編纂には法素材の完全な体系化が必要であるが,そのための理論的前提は人文主義法学や自然法学の体系的法律学によって作り出された。法典編纂の事業ではまた,従来の普通法とくにローマ法を自然の理性を基準に批判し,そこから実際に役だつもののみを取り出して自国の法制度と結びつけ,法典をその国の実情に適合しうるものにしようとした。それはローマ法からの解放と自国法の独立をも意味し,実際に法典が成立すると普通法の適用は排除された。また法典はラテン語でなく自国語で書かれ,一般に理解しやすいものにしようとされた。当時の代表的な法典は,プロイセン一般ラント法(1794),フランス民法典(ナポレオン法典,1804)およびオーストリア一般民法典Allgemeines bürgerliches Gesetzbuch für Österreich(1811)である。プロイセンの法典は公私法にまたがる包括的大法典で,わかりやすくするため個別的で詳細な規定のしかたをしている。他の二つは民法の領域に限られ簡潔で明瞭である。
19世紀に入ると,いわゆるドイツの法典論争で,上記の法典にみられる法典の実質的完全性の観念や法改革への志向を批判し,法典ではなくて,法律学による統一法の形成を主張した。それにもかかわらず,国家の集権化,立憲主義の発展,さらに市場経済圏の拡大とともに,憲法典,刑法典,商法典など,個別の法領域で次々と法典が編纂された。18世紀におけるような法典による他の法源の排除や裁判官の法律への拘束は緩和されたが,法典が存在する場合,法律実証主義的な考え方が強化された。ドイツ,スイスでは地方法典の編纂(ザクセン民法典やチューリヒ私法典など)が行われたが,これらの経験をふまえ第二波の法典編纂の頂点において作られたのがドイツ民法典(1896成立,1900施行)とスイス民法典(1907成立,12施行)である。そこにはヨーロッパの伝統的法律学の技術の粋が結集されている。
執筆者:石部 雅亮
日本
日本では明治維新以後,フランス(のちドイツ)を中心とする西欧近代法の継受という形で系統的に諸法典の編纂が行われ,はやくも明治30年代初頭には基本法典の全面的成立をみるに至った。このように急速な法典編纂が行われた背景には,列強諸国との間に締結された不平等条約(治外法権,関税自主権の否定)の改正による国家的独立の達成という明治政府の課題が働いていた。すなわち,かかる課題の実現のために明治政府は,強力な国家体制の確立と資本主義の育成を目ざして,封建的諸制度の改革と同時に先進国の高度に発達した生産力の導入を積極的に推進した。これにともなって展開する新しい政治的,経済的,社会的関係を媒介し規制する手段として西欧近代法の原理に基づく法典編纂を急いだのである。そしてまた,この法典編纂は列強諸国による条約改正の前提条件でもあった。かくして明治政府の成立後ただちに開始された法典編纂のうちで,近代法典として最初に成立したのは刑法(旧刑法),治罪法で,1880年に公布,82年から施行された。ともにボアソナードの起草にかかりフランス法の影響が強い。その後,両法典はドイツ法の影響のもとに改正され,治罪法は90年に刑事訴訟法にかわり(のち1922改正),刑法は1907年に全面改正された。1881年の〈国会開設の勅諭〉の発布後,伊藤博文の主導下で本格的編纂が始められた憲法は,ドイツ系の諸憲法を範として起草され,枢密院の審議を経て89年欽定,公布された(翌年施行)。天皇主権制を基本原則とするこの大日本帝国憲法は,第2次大戦後の国民主権,平和主義,民主主義を基本原則とする日本国憲法の制定(1946公布,翌年施行)によって廃止された。
民法の編纂は,ボアソナードの指導のもとに進められ,フランス民法典の影響をうけたいわゆる〈旧民法〉が90年に公布されたが,93年の施行を前にその実施可否をめぐる〈法典論争〉の結果,施行延期となった。その後,日本人委員のみで構成する法典調査会(1893年内閣に設置)で,ドイツ民法第一草案を斟酌(しんしやく)して修正案が起草,審議され,帝国議会の議を経て,前3編(総則,物権,債権)が96年に,後2編(親族,相続)が98年に公布され,同年全編が施行された。なお,1947年に後2編は全面改正された。商法は,1881年レースラーによって起草が開始され,90年に公布(旧商法),翌年から施行されることになったが,〈法典論争〉の結果,93年まで施行延期となった。その後,急を要する会社,手形,破産の部分を除いて再度延期され,新しい商法が,法典調査会の起草,審議,帝国議会の議を経て,99年に公布,施行された(なお,この間議会の解散の結果,1898年7月1日から残りの部分も施行された)。民事訴訟法は,ドイツ民事訴訟法を範としてテヒョーHermann Techowが起草し,1890年に公布,翌年から施行された。以上に概観した主要法典の全面的成立は,条約改正の発効(1899)とあいまって,日本近代の法体制が明治30年代初頭に確立したことを意味する。そしてここに確立した法体制の基幹部分は,第2次大戦後の〈戦後改革〉に至るまで保持された。
執筆者:吉井 蒼生夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報