ロシアの生理学者。9月14日、中央ロシアのリャザニの牧師の子に生まれる。教会で教育を受けたのち、ペテルブルグ大学で学び、1875年陸軍軍医学校に入り医学を学んだ。かたわら獣医学研究所生理学研究室で助手として働き、ついで1878年ボトキンСергей Петрович Боткин/Sergey Petrovich Botkin(1832―1889)の臨床研究室で主任格として生理学研究に従事した。1879年、金メダルを受賞して卒業、ただちに2年間の奨学金を得て、引き続きボトキンの研究室で、血液循環、消化、薬理学的研究を行った。そしてこの間にブレスラウ大学の生理学教授ハイデンハインRudolf Heidenhain(1834―1897)のもとで2年間、続いて1884年から1886年はライプツィヒ大学生理学教授ルートウィヒに師事した。1890年軍医学校の薬理学教授に任命され、1895年同校生理学教授となり、以後30年間生理学教室を主宰し、1924年辞任した。この間1891年に実験医学研究所が新設され、その生理学研究部門の主任に迎えられ、現職を兼務し、このほうは生涯を終えるまで45年間務めた。
彼の輝かしい業績は消化腺(せん)および条件反射の研究である。ハイデンハインの小胃法を改良し、神経無傷の小胃法を考案し、純粋胃液の採集を可能にした。この方法で、小胃(胃瘻(ろう))、食道瘻、耳下腺瘻(せんろう)、膵瘻(すいろう)を作成し、無条件(先天性)反射および条件(後天性)反射性の消化液分泌の研究を行い、条件反射学を創始、発展させた。この条件反射の研究は、大脳の生理機能を研究するうえで重要な手段として貢献した。1889年以来次々と業績を発表、消化腺に関する初期の著名な論文として『神経支配のある小胃法』(1894)、『胃および食道瘻による純粋胃液の採集』(1895)、『嗅覚(きゅうかく)は胃液分泌を引き起こす』(1898)などがあり、1904年「消化の生理に関する研究」でノーベル医学生理学賞を授与された。代表的著書として『条件反射学講義』(1928)、『大脳両半球の働きについての講義』(1927)、『条件反射研究の20年』(1932)などがあり、各国語に翻訳されている。
パブロフのもとには世界各国からの入門者が相次ぎ、スペランスキーをはじめ多くの俊英が輩出した。また招かれて、イギリス、フランス、スイスなど各地で条件反射や大脳生理に関する講演を行った。1936年2月27日レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)で死去。
[中山 沃]
『林髞訳『条件反射学』全3冊(新潮文庫)』
ロシアの生理学者。中部ロシアのリャザンで司祭の子として生まれた。1870年,ペテルブルグ大学に入学,ツィオンI.F.Tsionの指導のもとに生理学を志し,在学中に膵臓神経の研究に対して金賞を授けられた。卒業後,軍医学校に入学,79年に医師免許を獲得した後,ライプチヒのK.ルートウィヒ,ブレスラウのR.ハイデンハインについて,生理学の研究を行った。86年帰国,ボトキンS.P.Botkinの研究所に入り,90年には軍医学校の薬理学教授となる。この間,血液循環の生理についての研究が中心であったが,消化の生理学的研究に移り,消化腺の研究や膵臓分泌神経の発見(1888)などの業績をあげた。95年,軍医学校の生理学教授となり,大脳や高次神経の研究に着手し,1902年からは条件反射についての研究を行い,有名なイヌを使った条件反射の実験を行った。パブロフの基本的な態度は,精神現象を生理学的な法則で統一しようというものであり,その意味でワトソンらの行動主義心理学に大きな影響を与えた。04年,消化腺の研究に対して,生理学者として初めてノーベル生理学・医学賞が与えられた。07年には科学アカデミー会員となった。
→条件反射
執筆者:川口 啓明
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