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タフターウィー al-Taḥtāwī, Rifā`ah Bek Rāfi`

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

タフターウィー
al-Taḥtāwī, Rifā`ah Bek Rāfi`

[生]1801. タフタ
[没]1873. カイロ
エジプトの学者。エジプト近代化の功労者。上エジプトのタフタの旧家に生まれ,1817年アズハル大学に入って勉学。 1824年には軍隊のイマーム (導師) に任じられた。 1826年エジプト副王ムハンマド・アリーが派遣した最初のフランス留学生団にイマームの資格で加えられ,1831年までパリに滞在,この間にフランス語に習熟した。また A.サシ,コサン・ド・ペルスバル,アメデー・ジョベールその他の東洋学者と接触し,ギリシア哲学,神話学,古代史,数学,地理学,物理学などを学ぶとともに,ラシーヌ,ボルテール,ルソー,モンテスキューその他の著書に親しんだ。帰国後はカイロの医学校でフランス語を教え,また陸軍士官学校に勤めてフランスの数学書や軍事書をアラビア語に訳した。 1836年外国語学校の校長となり,付設の翻訳所も指導。多くのフランス書を訳したが,その多くは教科書として用いられた。ムハンマド・アリーが創設した最初の官報"al-Waqā'i` al-Miṣriyyah" (エジプトの出来事の意) の編集者となり,これを読み物としてもおもしろく内容豊富なものにし,近代式の新聞の先駆とした。こうしてアラブの文芸復興 (ナハダ) 運動の先頭に立っていたが,1848年ムハンマド・アリーが死に,孫アッバースが政権を握ると,スーダンのハルツームに左遷され,そこで F.フェヌロンの『テレマック』を訳した。アッバースが暗殺されたあと,カイロに帰り,多くの要職につき,ナポレオン法典の翻訳の主任となったり,最初の女学校を創立するなど,功績が多かった。晩年はすべての公職を退き,もっぱら著述に従った。その文章は平明で,しかもアラビア語の香気を失わなかった。彼の門下生たちがアラビア語に訳した西欧文献のみで 2000種に達するといわれている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

タフターウィー【al‐Ṭahṭāwī】

1801‐73
エジプトの思想家。上エジプトのタフター村の有力者の家系に生まれ,アズハル学院に学ぶ。1826年,時の支配者ムハンマド・アリーが派遣した留学生たちを引率するイマームとして渡仏し,5年間のパリ滞在中,七月革命を目撃し,フランス語を修得し,フランス啓蒙思想の理解を深めた。帰国後,《官報al‐Waqā’i‘ al‐miṣrīya》の編集長,翻訳局長などを務め,ナポレオン法典やモンテスキューの著作などを翻訳し,ブーラークBūlāq印刷所からイブン・ハルドゥーンなどのアラビア語古典を出版した。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

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