日本大百科全書(ニッポニカ) 「モンテスキュー」の意味・わかりやすい解説
モンテスキュー
もんてすきゅー
Charles de Secondat, baron de La Brède et de Montesquieu
(1689―1755)
フランスの啓蒙(けいもう)思想家。1月18日ボルドー近郊のラ・ブレードの城に生まれる。オラトリオ会経営のジュイーの学院に学び、ついでボルドー大学で法律を修めて、弁護士となる。1709年パリに出て、フォルトネルをはじめ学者、文人と交わったが、父の死後その跡を継いでボルドー高等法院評定官となる。さらに7歳のとき母の遺産として相続したラ・ブレード男爵領に加えて、1716年叔父の遺産モンテスキュー男爵領とボルドー高等法院院長の地位を継承する。しかし領地はそれほど大きなものではなく、1726年には院長の官職を賃貸しなければならなかったという。またこのころボルドー・アカデミーの会員として自然科学とくに博物学に関するいくつかの報告を行っている。
1721年、東洋人の目を借りて当時のフランスの社会と政治とを批判した書簡体の風刺小説『ペルシア人の手紙』を匿名で出版する。そのなかのトログロディト人の物語(第11~14書簡)は、美徳と自由の結合した彼自身のユートピアを描いたものとして有名である。ほかにモンテスキューの文学作品としては『グニードの神殿』(1725)、『アルザスとイスメニー』(1783)などがある。『ペルシア人の手紙』によって彼は一躍パリ社交界の寵児(ちょうじ)となり、1727年アカデミー・フランセーズの会員に迎えられた。しかし彼は生涯の大作『法の精神』の準備のため、1728年4月ヨーロッパ旅行に出発し、1731年5月まで各国の社会事情を詳細に視察する。とくにイギリスの政治制度に深い関心を寄せ、『法の精神』では「政治的自由をその国家構造の直接の目的とする」として、これを礼賛している。しかし同時に、彼は当時のウォルポール内閣のもとでの金権政治の実態に無知だったのではない。帰国後まず『ローマ人盛衰原因論』(1734)を発表。そこで彼は大胆に「歴史を支配するのは運命ではない」と宣言する。つまり、自然科学的因果法則を歴史現象に適用し、一般的原因と特殊原因との多彩な組合せに基づいて、歴史的事実を統一的に説明することができるとした。これによって、モンテスキューは初めて歴史を摂理から解放したのである。
その後、絶えずパリのサロンとラ・ブレードの城とを往復しながら主著の完成に努める。彼自身「20年にわたる労作」といった『法の精神』(1748)は、刊行18か月で21版を重ねるほどの大成功を収めた。しかし批判も激しく、彼は『法の精神の擁護』(1750)によって反論したが、この著作は1751年法王庁の「禁書目録」に加えられた。『法の精神』は、とくに第2、3編における理念型としての三政体論(共和制、君主制、専制)および第11編第6章のいわゆる三権分立論によって有名であるが、後者についていえば、モンテスキューの真に意図するところは、執行権=君主、立法権=下院(人民)、司法権=上院(貴族)の三権力機構の勢力均衡にあったと考えられる。晩年は視力の減退にもかかわらず新しい著作を企て、また『百科全書』のため「趣味論」を執筆したが、これは未完に終わった。1755年2月10日パリで死去した。
[坂井昭宏 2015年6月17日]
『井上幸治編『世界の名著34 モンテスキュー』(1980・中央公論社)』▽『L・アルチュセール著、西川長夫・阪上孝訳『政治と歴史』(1974/新訂版・2004・紀伊國屋書店)』▽『福鎌忠恕著『モンテスキュー』全3巻(1975・酒井書店)』▽『E・デュルケーム著、小関藤一郎・川喜多喬訳『モンテスキューとルソー』(1975・法政大学出版局)』