コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

チャアダーエフ

百科事典マイペディアの解説

チャアダーエフ

ロシアの哲学者軍人となり,ナポレオン戦争従軍。退役してヨーロッパ各国を歴訪,帰国後,1829年から1831年にかけて《哲学書簡》を執筆,その第1書簡を1836年に発表し,ロシアの後進性の原因がロシア正教農奴制にあることを指摘した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

チャアダーエフ【Pyotr Yakovlevich Chaadaev】

1794‐1856
ロシアの思想家。富裕な貴族の家に生まれ,幼くして両親に死に別れ,伯母に育てられた。母方の祖父は有名な歴史家の公爵シチェルバートフM.M.Shcherbatov(1733‐90)である。1812年モスクワ大学を卒業するやナポレオン戦争に参加し,近衛連隊の士官として各地に転戦,14年にはロシア皇帝アレクサンドル1世に従ってパリに入城した。16年ロシアに帰還した彼はデカブリストの結社〈福祉同盟〉に加入したといわれるが,21年,突如軍籍を退いて,哲学と歴史の研究に専念した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

チャアダーエフ
ちゃあだーえふ
Пётр Яковлевич Чаадаев Pyotr Yakovlevich Chaadaev
(1794―1856)

ロシアの思想家。『哲学書簡』の作者。有名な歴史家シチェルバートフMikhail Mikhailovich Shcherbatov(1733―1790)公の孫としてモスクワに生まれる。幼くして両親と死別し、母方の伯母に育てられた。1808~1811年モスクワ大学に学び、卒業するやただちに祖国戦争(ナポレオン戦争)に参加し、1816年帰還後、デカブリストの「福祉同盟」と「北方結社」に加入したが、積極的活動はしなかった。1821年春、突如軍籍を退き、哲学の勉強に没頭した。1823年7月から1826年6月まで西ヨーロッパ各地を歴遊し、カールスバート(チェコのカルロビ・バリ)では尊敬する哲学者シェリングを訪問した。デカブリストの蜂起(ほうき)のあとに帰国したため、厳しい取調べを受けただけに終わったが、少なからぬ友人が蜂起に参加したため処刑されたり、シベリア苦役となった。
 1829年から1831年にかけて、8編からなる『哲学書簡』をフランス語で書き上げたが、この第1編がロシア語訳されて、1836年雑誌『テレスコープ』の第15号に掲載された。チャアダーエフはこの論文で、ロシアの全歴史と未来を痛烈に否定したところから、この論文の評価をめぐってロシアの言論界は二分し、やがてスラブ派と西欧派が生まれることになる。一方この論文を読んだ皇帝ニコライ1世は、チャアダーエフに対し公式に「狂人」の宣告を下した。これ以後、彼はいっさいの執筆を禁止されたが、1836年冬から翌1837年春にかけて、ひそかに『狂人の弁明』なる論文を書き、そのなかで、ロシアがヨーロッパよりも遅れて歴史に登場したのは、ヨーロッパの過ちを繰り返さずにすむ恵まれた条件であると主張した。また「一八四八年の革命」のときには秘密裏に人民に蜂起を呼びかけるアピールを書いたり、クリミア戦争のときには偏狭な愛国心を批判したりした。[外川継男]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内のチャアダーエフの言及

【第三部】より

…プーシキン,レールモントフ,ゴーゴリ,ツルゲーネフらの活動は,第三部によって厳しく監視され,作品は事前検閲をうけ,最悪の場合には著者は流刑処分をうけた。たとえば《哲学書簡》を書いたチャアダーエフは精神病院に拘禁され,若きドストエフスキーもペトラシェフスキー事件に連座して死刑判決(のち流刑に減刑)をうけた。第三部は80年に内務省警務局にその権限を委譲して廃止された。…

※「チャアダーエフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

チャアダーエフの関連キーワードミハイル ゲルシェンゾーンゲルシェンゾーンテレスコープ5月27日ロシア哲学ロシア文学スラブ派西欧派

今日のキーワード

優曇華

《〈梵〉udumbaraの音写「優曇波羅」の略。霊瑞、希有と訳す》1㋐インドの想像上の植物。三千年に一度その花の咲くときは転輪聖王が出現するという。㋑きわめてまれなことのたとえ。2 クサカゲロウ類が産...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android