ティチング(読み)Titsingh,Isaac

朝日日本歴史人物事典 「ティチング」の解説

ティチング

没年:1812.2.2(1812.2.2)
生年:1745.1.10
江戸中期の長崎出島オランダ商館長。オランダ最初の日本学者。アムステルダムの医者の家系に生まれ,外科医となる。ライデン大学で法学博士号を得た。1765年にオランダ東インド会社の下級商務員としてバタビアに出発,73年バタビアの穀物倉庫副支配人。商館長として3度来日(滞在期間は1779.8.15~1780.11.6,1781.8.12~1783.11.6,1784.8.18~1784.11.26)。この間2度江戸参府を行い,安永9(1780)年3月1日と天明2(1782)年3月1日に将軍徳川家治に謁見した。日蘭貿易改善のために調査する一方,蘭癖大名(福知山藩主朽木昌綱,薩摩藩主島津重豪,平戸藩主松浦静山),長崎奉行久世広民,長崎町年寄後藤惣左衛門,典薬大允荻野元凱,蘭学者の桂川甫周,中川淳庵らとの親交を通じて,広範な日本研究資料を収集。通詞(吉雄幸作,本木良永,堀門十郎ら)の協力を得て資料の正確な翻訳に努め,帰国後の著作に備えた。バタビア帰着後,東インド会社ベンガル長官として商館を再興中(1785~92)も朽木や通詞との文通を維持し,清国乾隆帝への東インド会社派遣使節に随行中(1795~96)も日本研究を続けた。フランス革命による政治的経済的混乱のなか1796年ロンドンにたどり着き,厭世的な学究としてパリに死す。遺著の『日本風俗図誌』はロンドンで10年後に刊行され,その一部は『日本王代一覧』として天保5(1834)年に翻訳された。<著作>沼田次郎訳『ティチング日本風俗図誌』

(松田清)

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百科事典マイペディア 「ティチング」の意味・わかりやすい解説

ティチング

長崎出島のオランダ商館長(1779年―1780年,1781年―1783年,1784年)。のちベンガル商館長,遣清使節に任じられた。1761年オランダ東インド会社に入社,1779年に来日。朽木昌綱(くつきまさつな),中川淳庵(じゅんあん)らと交わり日本研究を行った。著書《日本風俗図説》は田沼時代の政治・社会の動向を伝える。→田沼意次田沼意知
→関連項目朽木昌綱

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ティチング」の意味・わかりやすい解説

ティチング
Titsingh, Izaak

[生]1745.1頃.アムステルダム
[没]1812.2.9. パリ
オランダの外科医,長崎出島のオランダ商館長,遣清特使。医学を修め,東インド会社に入り,1768年バタビアに赴任。 79~80,81~83,84年と長崎出島の商館長 (カピタン) をつとめ,その間2度江戸に参府した。 84年バタビアに戻り,85~92年インドのベンガル長官,92~95年バタビア評議員,その間 94年遣清使節として北京を訪れ乾隆帝に謁した。 1801年オランダに帰国,まもなくパリに移住,東洋学者として名をなした。東洋滞在 29年,日本に最も関心が厚く,蘭医中川淳庵,桂川甫周らと親交を結んだ。彼が持帰った『三国通覧図説』 (林子平著) はドイツ人 H.クラプロートによるフランス語訳が刊行された。主著『日本風俗図誌』 (1822) などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「ティチング」の意味・わかりやすい解説

ティチング
Isaac Titsingh
生没年:1744-1812

江戸後期に来日したオランダ人。1761年オランダ東インド会社に入社。79年(安永8)出島のオランダ商館長となり来日。84年まで1年交替で3度来日,80,82年の2回江戸参府。インドのベンガルのチンシュラの商館長,会社の理事,遣清大使(1794)を務めた。95年帰国。パリで客死。朽木昌綱,中川淳庵,吉雄耕牛らと親交があり,彼の日本研究のうち《日本風俗図誌》が《新異国叢書》に収録されている。
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