改訂新版 世界大百科事典 「日本研究」の意味・わかりやすい解説
日本研究 (にほんけんきゅう)
西洋における日本研究は,16世紀後半以降,キリスト教の日本への普及とともに始まり,19世紀後半から20世紀前半にかけてイギリスが,また太平洋戦争を契機としてアメリカが日本研究の中心となった。一方,ロシア・ソビエトは独自の伝統をもち,戦後はアジア諸国でも盛んになりつつある。
1549年(天文18)F.ザビエルの来日によってキリスト教の布教が開始されるとともに,イエズス会士による日本研究も始められた。イエズス会士の膨大な通信のほか,日本語に熟達したJ.ロドリゲスの《日本大文典》《日本小文典》を生み,1603年(慶長8)には長崎で《日葡辞書》が刊行され長く日本研究者の指針となった。ロドリゲスの《日本小文典》は20年にはフランス語訳が中国の澳門(マカオ)で刊行されている。鎖国後もイエズス会の日本研究は続けられ,カナダ布教をし《トレブー百科事典》の編集に22年も従事したフランス人シャルルボアPierre François Xavier de Charlevoix(1682-1761)は,《日本切支丹史》3巻(1715)で広く影響を与えたが,現地で資料を使えるのは平戸,長崎のオランダ商館に居住を許される者のみになった。約20年間在日したF.カロンは《日本大王国志》(1648)をオランダ語で書き,1690年(元禄3)に来日したE.ケンペルは《日本誌》《江戸参府旅行日記》を,1775年(安永4)来日したC.P.ツンベリーは《日本植物誌》《日本紀行》を,1823年(文政6)来日したシーボルトは《日本》を刊行した。カロンはフランス人で,《セビリャの理髪師》《フィガロの結婚》を書いたボーマルシェの大伯父にあたり,ケンペル,シーボルトはドイツ人,ツンベリーはスウェーデン人でリンネの高弟の植物学者である。
来日せず日本を論じた学者としてはまずルネサンスのフランス人文学者G.ポステルがあり,《東インド会社遣日使節紀行(モンタヌス日本誌)》(1669)を書いたオランダの宣教師モンタヌスArnoldus Montanus(1625-83),上記のシャルルボアがある。シーボルトの助手を務めたJ.J.ホフマンは1835年ライデン大学教授となり,40年に《千字文》,42年に浅野高蔵の《和漢年契》のオランダ語訳,48年には上垣守国の《養蚕秘録》のフランス語訳をパリとトリノで出版,67年には《日本文法》を出し日本学に多大の寄与をしたが,1848年に柳亭種彦の《浮世形六枚屛風》を訳し,72年《万葉研究》を刊行,78年オーストリア学士会員となったフィッツマイヤーAugust Pfizmaier(1808-87)と同じく,来日はしていない。中国学Sinologyが早く確立したフランスでも,中国学者S.ジュリアンの弟子ロニーLéon de Rosny(1837-1914)は日本研究に移り,1863年からパリ東洋語学校で日本語を教え始め,68年から正規となったこの講座の教授を1907年まで務めたが,来日はしなかった。19世紀の文献学の隆盛期に日本学は〈盆栽的学問orchid science〉への傾向を強めた。この間フランス,イギリスの外交官のなかからは,L.パジェスをはじめ,E.M.サトー,W.G.アストンのような優れた日本学者となる人々が輩出し,B.H.チェンバレンをはじめ御雇外国人として来日したJ.マードック,L.ハーン(小泉八雲),アペールVictor George Appert,ブスケGeorge Hilaire Bousquet,サンソムGeorge Bailey Sansom(1883-1965)らも日本の現実に基づいた研究の成果をあげたが,イギリス人を除いては本国の大学に戻れなかった。サンソムはイギリスでは教職に就かず,1935年,のちにハーバード大学と並んでアメリカの日本研究の中心の一つとなるコロンビア大学で教えた。パリ大学,東洋語学校高等実習学院(ÉPHÉ)に日本語・日本文化の講座をもつフランスは,1923年東京日仏会館を開き,各専門分野の若いフランス人学者を日本で研修させることを始め,アグノエル,ジュオン・ド・ラングレ,R.シフェール,B.フランクらを育てた。太平洋戦争は,異質文化としての日本の分析の必要を強く感じさせ,日本研究の中心はアメリカに移動した。戦後の日本の経済的成功は太平洋圏の諸国を刺激し,オーストラリア,ニュージーランド,フィリピン,インドネシア,シンガポール,タイなどで日本研究が盛んになっており,ヨーロッパ諸国も従来の文献学的手法の枠を社会学,経済学に広げつつある。また英語圏,フランス語圏では従来の〈日本学Japanology,Japonologie〉に代わって〈日本研究Japan studies,études japonaises〉という語が使われるようになった。
執筆者:松原 秀一
イギリス
19世紀後半から20世紀前半にかけて,日本を研究した外国人の多くはイギリス生れであった。この時期の日本研究は,まだ学問として体系化されておらず,研究家は大学で養成されるのではなく,外交,軍事,ジャーナリズム,産業技術,英語教育などの分野で日本とのかかわりを深めることになった個人が,それぞれの関心に応じた研究を,本国や日本で進めていたのである。
イギリスにおいて日本への一般の関心が高まるのは,アメリカ合衆国が大英帝国を出し抜いて日本を開国させようとする1850年代の初頭である。このころイギリスでは,日本を〈奇妙な国〉とする論が盛んに行われた。その典拠とされたのが,17世紀末に出島にいたE.ケンペルの《日本誌》(1727)であった。このような日本観は,〈東洋の永遠の停滞〉という,19世紀西欧に特有の信念に支えられ,さらに日英通商条約交渉の全権随員オリファントLaurence Oliphant(1829-88)による《エルギン卿使節録》(1859)の出版によって強化された。しかしその後,日本社会の急変という事態が生じると,日本は〈神秘の国〉とみなされ,やがてこれが固定観念となってイギリス社会に根を下ろすのである。イギリスの日本研究の歴史は,実はこのような,日本を特殊視する傾向を否定する営みとして展開してきたといってよい。
その先鞭をつけたのは,初代駐日イギリス公使R.オールコックである。著書《大君の都》(1863)は,彼が日本研究を学問としてよりも現実の外交活動に必要なものとして行っていたことを示している。しかし,日本語を習得し,日本の識者や古典に接しながら,文化や歴史を正確に知ろうとする努力が始まるのは,1865年(慶応1)にH.S.パークスが第2代公使として着任してからである。〈パークスの学校〉とのちに評されたように,E.M.サトーやW.G.アストンをはじめ,ミットフォードAlgernon Bertram Freeman-Mitford(1837-1916),アダムズFrancis Ottiwell Adams(1825-89),ガビンズJohn Harrington Gubbins(1852-1929),ロングフォードJoseph Henry Longford(1849-1925)など,多くの部下が,それぞれの分野で日本通に仕立てられる。また,この〈学校〉の周辺には,軍属のディキンズFrederick Victor Dickins(1838-1915)やブリンクリーFrancis Brinkley(1841-1912),言語学者B.H.チェンバレンらもいた。ただ,これらの〈生徒〉の学習成果は,1870年代前半のころまでは,外交文書やロンドン大学中国語教師J.サマーズの編になる小雑誌などに出る以外は,おもに横浜の日本アジア協会The Asiatic Society of Japanの紀要(1872以降)に掲載される程度で,西欧の読書人層に直接の影響を及ぼすことはまれであった。唯一の例外は,日本の民話や史伝を紹介したミットフォードの《古い日本の物語》(1871)で,日本の諸階層の価値観を示すものとして,20世紀に入っても版を重ねた。なお,これらの公使館関係者は,対日外交にオランダ語を使う必要をなくすためにも,早くから日本語会話教本の作成に努め,また和書や美術工芸品をも多量に収集し,のちの日本研究の進展に寄与している。1880年代には,日本の奥地についての認識も深まり始める。なかでも教会伝道会のJ.バチェラーによる《蝦和英三対辞書》(1889。第2版以降《アイヌ・英・和辞書》と改題)の刊行は,従来の日本研究の幅を広げるものであった。
イギリスで日本研究が学術の一分野としての地歩を固め始めるのは,19世紀末から第1次大戦にかけてである。チェンバレンは《古事記》の訳業(1883)に続いて,日本百科《日本事物誌》(1890)を刊行,アストンは《日本書紀》の訳注(1896)を出版した。20世紀に入って,サトーによる近代日本史がケンブリッジ版《近代史》(1909)に収録され,またロングフォード,ガビンズ,ディキンズらが,それぞれロンドン,オックスフォード,ブリストルの各大学の教壇にしばらく立つのも,このころである。ただし日本学が大学教育の一科目として制度的保障を受けたのは,第2次大戦に至るまではロンドン大学東洋学校The School of Oriental Studiesのみであった。このことは,イギリスの出版界で,日露戦争後,再び日本の神秘性を強調する著作が幅をきかせていたことと表裏一体の関係にある。大学が日本研究を独占するにはほど遠かったのである。20世紀初頭から30年代にかけて活躍した日本研究者の大部分は,大学の外で育っている。歴史家マードックJames Murdoch(1856-1921),作家L.ハーン,神道研究家ポンソンビー・フェーンRichard Arthur Ponsonby-Fane(1878-1937)らは,いずれも日本で英語教師を務めながら研究を進めたのである。このような傾向は,30年代以降に注目すべき成果をあげた,《源氏物語》の訳者A.D.ウェーリー,歴史家サンソムGeorge Bailey Sansom(1883‐1965)やボクサーCharles Ralph Boxer(1904-2000),経済学者アレンGeorge Cyril Allen(1900-82)らにも共通している。ウェーリーの業績は,大英博物館所蔵の和書の充実の副産物であり,他の3名の場合は,外交や教育に関連して滞日した経験に端を発している。ボクサーの初期日欧交渉史は,ヨーロッパ各地の古文書を渉猟するという新たな方法によるものであった。日本研究の活動が外務省や王立国際問題研究所などに統合され始めるのは,30年代も後半になって極東問題が深刻化してからのことであった。この時期,上記サンソム,アレンと並んでG.F.ハドソン,F.C.ジョーンズらの日本の現状分析は,直接帝国外交に影響を及ぼすに至っている。
イギリスの大学が日本研究者の養成において初めてその機能を十全に果たすのは,第2次大戦中である。ロンドン大学東洋学校では,日本語科教授ダニエルズFrank James Danielsと,元駐日武官ピゴットFrancis Stewart Gilderoy Piggott(1883-1966)によって,戦時対日要員のための日本語集中講座が組織され,数百名の生徒が送り込まれた。戦後の大学における日本研究の指導者のほとんどは,その中から育つのである。ケンブリッジ大学のE.シーデル,D.ミルズ,C.ブラッカー,ロンドン大学のC.ダン,P.オニール,R.P.ドーア,シェフィールド大学のG.ボーナス,ダラム大学のL.アレン,大英博物館のK.ガードナーなどである。またロンドン大学のW.G.ビーズリー,I.ニッシュ,オックスフォード大学のG.R.ストーリーも戦時の日本語将校としての訓練を他の機関で体験している。これらは,イギリスの日本研究が,絶えず何か別の,より差し迫った必要にかられての活動の副産物として発達してきたという〈伝統〉を集約するかのような逸話である。
この時期を境に,次代のイギリスの日本研究者は,日本学を自己目的として大学で養成されるようになる。戦後はロンドン大学に加えて,ケンブリッジ大学,オックスフォード大学が日本語教育を再開,63年にはシェフィールド大学に日本研究センターが設立された。また66年には,これらの大学と大英博物館が協同して日本関係図書館グループを結成し,74年にはイギリス日本学会が誕生した。このような研究環境の組織化は,70年代以降の日欧間経済摩擦の深刻化と切り離しては考えられない。70年代後半からは,日英両国政府の連携により,日本から公私の資金援助がイギリスの日本研究活動に多量に注がれるようになり,他の社会科学領域の専門家も交えて,現代日本社会についての学際的研究が活性化している。アマチュアリズムとの境界があいまいなまま,よかれあしかれ個性豊かに進められてきたイギリスの日本研究は,ようやく大きな転機を迎えている。
執筆者:ゴードン・ダニエルズ+横山 俊夫
アメリカ
アメリカ人の手になる最初の日本研究書は歴史家ヒルドレスRichard Hildreth(1807-65)の《過去と現在の日本》(1855)であろう。《アメリカ合衆国史》6巻(1845-52)の著者として知られる彼は,ヨーロッパによるアメリカの〈発見〉,開拓を調べているうちに,ほぼ同時代に行われたヨーロッパによる日本の〈発見〉に興味をもつようになり,日本に関する文献を読みあさって一冊の本にまとめた。だがヒルドレスは西欧人の手による資料,旅行記などを通してのみ日本に接触した。日本体験に基づいた最初の本格的な研究書は,お雇い教師として来日したW.E.グリフィスの《皇国》(1876)である。この書には,封建制度の廃止によってつくられた〈新日本〉への賞賛とともに,その〈新日本〉の民主主義化,キリスト教化を強く望む,牧師志願の若者らしい啓蒙的な態度が見られる。1880年代から,天文学者のP.ローエルの《極東の魂》(1888)や,それにひかれて来日したL.ハーンの《知られざる日本の面影》(1894),《こころ》(1896)など,日本の異国性,エキゾティシズムを強調した研究が続出した。その後,日本の神秘性や不可思議さにとらわれすぎているとしてローエルに反論した研究に,進化論の立場から近代日本の社会制度を解明しようとしたS.L.ギューリックの《日本人の進化》(1903)と,ローエルに〈承服しかねる〉ものを見いだした晩年のハーンの《神国日本》(1904)がある。また建築,芸術の分野における草分け的研究としては,日本の民家を詳しく紹介したE.S.モースの《日本のすまいとその周囲》(1886)や,E.F.フェノロサの遺作《東亜美術史綱》(1912)と,詩人E.パウンドが発表したフェノロサの漢詩と能楽の研究も重要である。
ボストン美術館東洋部部長を務めた岡倉天心,イェール大学の朝河貫一(1873-1948),コロンビア大学の角田(つのだ)柳作(1877-1964)など,アメリカにおける日本研究に尽力した日本人の役割も見逃してはならない。朝河はイェール大学で博士号を取得し,1906年から同大学で日本語,日本史を担当するかたわら,日本関係図書も収集し,のちのイェール大学の日本研究発展の基礎を築いた。彼の日本封建制度の研究業績は西洋の学者に大きな影響を与えた。また,コロンビア大学教授を務めた角田も26年ごろから日本研究センターの必要を痛感し,日本語図書の収集に力を注いだ。彼は54年までコロンビア大学に在職し,現在,アメリカにおける日本文学研究の第一人者として知られるD.キーン,E.サイデンステッカーは彼に学んだ。さらに,ハーバード大学のイエンチン(燕京)研究所が1926年に日本語講座を設け,34年までにミシガン大学,スタンフォード大学,シカゴ大学を含む八つの大学が日本語講座を開いた。しかし,太平洋戦争勃発のとき,日本語のできる人材のあまりの乏しさに驚かされたアメリカは,海軍日本語学校の設立を急いだ。この海軍日本語学校はコロンビア大学のH.パッシンなど,多くの日本研究者を育てた。戦時中に書かれた唯一の日本研究書は,アメリカの〈最も異質な敵〉の本質を解明しようとした文化人類学者R.ベネディクトの《菊と刀》(1946)である。
戦後,文学と歴史を中心に日本研究は徐々に伸びてきた。歴史でとくに注目すべきなのは,ともに日本で育ち,ハーバード大学のイエンチン研究所で日本,中国の研究に従事したE.O.ライシャワーと,《日本における近代国家の成立》(1940)などを残したカナダの外交官E.H.ノーマンの業績である。さらに,M.ジャンセンを中心に,プリンストン大学からも多くの研究者が現れた。60年代半ばまでの日本文学研究はおもに翻訳で,H.C.マッカラーの《太平記》(1959)のように,博士論文として提出された翻訳書がそのまま出版されたものが少なくなかった。川端康成のノーベル文学賞受賞(1968)を契機に,翻訳のみならず作家論,作品論も増えてきたが,大学によっては,大学院の授業でも英訳されていない作品は取り上げない傾向があり,日本語を十分に読みこなせない学生がまだ多い。70年代後半から,日米間の貿易摩擦や防衛の問題が高まり,日本の政治,経済の専門家がますます必要になってきた。80年ごろからは,アメリカの経営方式への反省から,日本的経営を紹介する経済研究が続出し,また,ジョンズ・ホプキンズ大学の高等国際研究所の日本研究センターなどが日本の貿易,防衛に関する専門家を世に送り出している。国際交流基金の調査(1982)ではアメリカの教育機関に属する日本研究者(回答者765人)の分野別比率は,言語・文学,歴史が各29%,政治学・国際関係,芸術・建築が各13%,経済・経営が8%である。文学と歴史を中心にした従来の研究に加えて,実務的な研究が今後大きな伸びを見せるであろう。
執筆者:満谷 マーガレット
ロシア・ソ連邦,東欧
東方への拡大を続けるロシアは17世紀中葉までにオホーツク海に達し,18世紀には千島への進出,日本との通商を図った。日本についての情報は,オランダなどの西ヨーロッパの文献,および日本人漂流者(伝兵衛,大黒屋光太夫など)から得ていた。18世紀初頭の1705年,ピョートル大帝の命でペテルブルグに日本語学校が設けられ,漂流民伝兵衛を教師に任じ,きたるべき日本との交渉に備えた。同様の学校は53年にイルクーツクにも設けられた。19世紀前半には,日本との通商関係を求めた航海者I.F.クルーゼンシテルンの《ナジェジダ号とネバ号による世界周航の旅》(1809-12),V.M.ゴロブニンの《日本幽囚記》(1816)などロシア側から見た日本研究書が現れた。さらに,日露和親条約(1855)の交渉のために日本を訪れた提督E.V.プチャーチンの秘書官を務めた作家I.A.ゴンチャロフの航海記《フリゲート艦パルラダ号》(1858)も重要文献としてヨーロッパ諸語に翻訳された。
日本との国交樹立後のロシアの日本研究は,ペテルブルグ大学とウラジオストクの東方研究所(1899創設)が中心となった。20世紀初頭までの日本研究は,欧米諸国と同じく,言語および文学を中心とする総合的なもので,地理と歴史は含まれていたものの,社会経済史的観点は欠如していた。初期の日本学者のなかでは,多年にわたって日本語教育に尽力したスパリビンE.G.Spal'vin,ポズネーエフDmitrii Matveevich Pozdneev(1865-1942)の名を逸するわけにはいかない。他方,言語学者のポリワノフEvgenii Dmitrievich Polivanov(1891-1938)は日本語の系統論と方言研究で世界的に知られた。同様に東洋語学者N.A.ネフスキーはアイヌ語,琉球語の研究に従事した。東大国文科に学んだS.G.エリセーエフは,一時ペトログラード大学の教壇に立ったが,革命後亡命し,フランスとアメリカ合衆国で多数の日本研究者を育てた。他方,文学,言語学から歴史までの広い範囲にわたって活躍したN.I.コンラッドは,ソビエト期の日本研究者の養成に大きな役割を果たした。
ソビエト時代になると,1920年代にレニングラードとモスクワに東洋学研究所が設けられるなど,東洋学研究全体が新たな飛躍を遂げるが,そのなかで日本研究も従来の成果を踏まえながら,新たな分野を開拓していった。そのひとつはマルクス=レーニン主義の方法の適用である。かくして,30年代から始まった日本研究の専門分化とともに,ジューコフEvgenii Mikhailovich Zhukov(1907-80)の《日本史》(1939)のような唯物史観に立脚した優れた歴史概説が生まれた。文学の領域では従来からの古典文学の翻訳とともに,近・現代文学への関心が高まり,30年代には日本のプロレタリア文学の紹介が行われた。第2次大戦後は,必ずしもイデオロギーとは関係なく,現代文学が盛んに翻訳されている。日本語学に関しては,この半世紀間に日露,露日の辞書が多数刊行されており,専門辞典を含めて20種以上にのぼっている。この点ではソ連は他の欧米諸国の追随を許さなかった。第2次大戦後のソ連の日本研究は,日本の政治,社会,経済の分析にも力を注ぎ,ペブズネルYa.A.Pevznerの独占資本研究のように,日本の学界に刺激を与えた成果も生まれた。全体としてソ連の日本研究は,研究者の層の厚さと研究テーマの多様性を特徴としていた。
東欧の日本研究はソ連に比べると質量ともにかなり見劣りがする。そのなかで,東ドイツは,ベルリンのフンボルト大学とライプチヒのカール・マルクス大学がそれぞれ東アジア研究所を擁し,ヨーロッパの日本学の伝統を受け継いでいた。ポーランドも日本研究の伝統を有する。ロシア帝国支配の時代にシベリア流刑となった作家で民族学者のW.シェロシェフスキおよび言語学者ないし民族学者のB.ピウスーツキの両者がアイヌ研究に手を染め,とくに後者はサハリンでアイヌの伝承を収録した。ポーランド独立後の1919年にはワルシャワ大学に日本語の講座が設けられ,55年にはこれが日本学科として独立し,日本に関する研究と教育の中心となっている。専門家としては言語学,文学のコタンスキWiesław Kotański(1915-2005)が知られている。このほかチェコのカレル大学(プラハ大学),ブルガリアのソフィア大学,ユーゴスラビアのベオグラード大学などに日本学科が設けられている。
執筆者:森安 達也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報