江戸中期の医師。江戸で生まれる。初め純安といい、のちに淳庵。名は玄鱗(げんりん)、単に鱗ともいう。字(あざな)は攀卿(はんきょう)。本草(ほんぞう)・物産の学を好み、青年時代からすでに本草家として知られていた。1764年(明和1)平賀源内とともに、武州秩父(ちちぶ)山の石綿を使って火浣布(かかんぷ)をつくり、源内の『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(1763)に校訂者の一人として名を連ねている。1771年杉田玄白に『ターヘル・アナトミア』の入手を斡旋(あっせん)し、のち『解体新書』の訳述にも参加。山形藩の医師安富奇碩(やすとみきせき)についてオランダ文字を習い、ツンベルクの江戸参府の際、淳庵はしばしば彼に医学について尋ね、ツンベルクも淳庵に日本の植物の名を尋ねている。かなりオランダ語を話したといわれる。1778年(安永7)小浜(おばま)藩酒井侯の奥医師になった。天明(てんめい)6年6月7日没。江戸・小石川金富町金剛寺に葬られたが、その後無縁となり、現在はない。1937年(昭和12)福井県小浜市の高成寺に碑が建てられた。著書に『和蘭(オランダ)局方』『和蘭薬譜』『五液精要』がある。
[深瀬泰旦]
『和田信二郎著『中川淳庵先生』(1941・立命館出版部/複製・1994・大空社)』
江戸中期の蘭学者。本人はツンベリーあてにSjunnanと署名している。小浜藩医中川仙安(竜眠)の長子として江戸に生まれ,名は玄鱗また鱗,字は攀卿,通称は純安また純亭のち淳庵といった。少年のころから植物に親しみ青年期にはすでに本草家として知られ,薬品会・物産会開催のたびに収集品を出品している。オランダの書物に載るアスベスト(石綿)の本体を同定して友人の本草・物産家平賀源内に教え,秩父山中でそれを採掘して1764年(明和1)火浣布(燃えない布)をつくった。同じ町内に住む江戸詰の山形藩医安富寄碩にオランダ語を学び,71年江戸参府のオランダ人を止宿先長崎屋に訪ね,解剖学の原書譲渡の情報を得て同僚の杉田玄白に伝え,藩費で購入したのが《解体新書》の原書で,その翻訳グループの一員として当初から参加している。76年(安永5)江戸参府の蘭館医ツンベリーを官医桂川甫周とともに毎日のように訪ね,西洋本草学・医学を学ぶかたわらツンベリーの日本植物研究を助け標本類の提供を行い,のちツンベリーの《日本植物誌》(1784)にその名が記され海外に知られた。藩医としては,1768年(明和5)稽古料三人扶持,70年家督相続120石,78年奥医師となる。85年藩主に随従して国元の小浜で勤藩中発病,翌年養生のため休暇を賜って江戸に帰ったが回復せず48歳で没した。著訳書に《和蘭局方》《和蘭薬譜》《五液精要》等の医薬書があり,また訓訳算書《籌算(ちゆうさん)》があるが,いずれも未刊。
執筆者:宗田 一
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(吉田厚子)
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1739~86.6.7
江戸中期の蘭方医・蘭学者。若狭国小浜藩医で本草家。薬品会に出品,平賀源内の「物類品隲(ひんしつ)」などを校閲。1764年(明和元)源内とともに火浣布(かかんぷ)を完成。71年長崎屋で「ターヘル・アナトミア」を入手し杉田玄白に仲介,前野良沢・玄白らと小塚原で観臓,会読を開始。73年(安永2)の「解体約図」,74年の「解体新書」出版に名を連ねた。オランダ商館長ティチングやツンベリと学術交換し,ヨーロッパにも名が知られた。訳書「和蘭局方」(未完),「和蘭薬譜」「五液精要」。
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