江戸後期の若年寄。寛延(かんえん)2年に当時小姓(こしょう)組番頭(のち老中)だった意次(おきつぐ)の嫡男に生まれる。1781年(天明1)部屋住(ずみ)のまま奏者番(そうじゃばん)、82年山城守(やましろのかみ)となり、83年11月若年寄に昇進し廩米(りんまい)五千俵を賜る。意次の老中とともに父子並んで同時に幕閣の中枢を握って、田沼政治の権勢を誇った。84年3月24日、江戸城中において新番の佐野政言(まさこと)(善左衛門)に突然斬(き)りつけられ、その傷がもとで4月2日死亡した。36歳。短い在任期間のために政治上目だった業績はないが、当時長崎のオランダ商館長だったイサーク・ティチングは、意知を斬新(ざんしん)的な政治家だとし、彼にまつわる「開国の噂(うわさ)」を伝えて、その横死を惜しんだ。
[山田忠雄]
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(山田忠雄)
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1749~84.4.3
江戸中期の幕臣。父は意次(おきつぐ)。1781年(天明元)奏者番,83年若年寄。オランダ人からの評価は高く能吏だったが,84年新番佐野善左衛門政言(まさこと)に江戸城本丸御殿中の間で刺され,それがもとで死去。佐野から請託を受けて金をとりながら約束をはたさなかったため恨みを買ったという。当時田沼父子を恨む者の間で佐野は「世直し大明神」とされた。この事件が契機となり父意次の勢力は衰退した。
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…18世紀後半,田沼意次(おきつぐ)・意知父子が幕政の実権を掌握していた時代をいう。1760年(宝暦10)大岡忠光の死から,86年(天明6)意次の老中免職に至る約27年間がこれに当たる。この時代は幕藩制を解体に導く経済的・社会的・文化的要因が一斉に急速に展開し,それらの危機的状況に幕府や藩が政治的に対応しなければならなくなった時代であった。そのことによって,この時代は,幕藩制の転換期とも,維新変革の起点の時期とも呼ばれる。…
…もともとは,縁起直し,世の中の悪い状態を直すことを意味する語として,また地震,雷などを除ける呪(まじな)いの言葉として,17世紀末ごろから都市民の間で使われた言葉である。
[世直し大明神]
1784年(天明4)3月24日,新番組の旗本佐野善左衛門政言(まさこと)が,江戸殿中で当時権勢並ぶ者がないといわれた田沼父子のうちの田沼意知(おきとも)に斬りつけ,これがもとで意知は3月26日に死に,意知の父意次(おきつぐ)も急速に権勢を弱め,86年老中を免職となり,翌87年に減封された。この政言の殿中での刃傷(にんじよう)は私憤によるものであったが,当時田沼政治に強い不満をもっており,とくに賄賂(わいろ)政治を不正であると考えるに至っていた江戸市民の強い関心を引いた。…
※「田沼意知」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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