日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドアーズ」の意味・わかりやすい解説
ドアーズ
どあーず
Doors
1960年代後半に活躍したアメリカのロック・グループ。ボーカルのジム・モリスン Jim Morrison(1943―1971)のカリスマ性とセックス、死、超越的なものへの関心などが主題となった詩的な歌詞、ブルースを基盤にさまざまな要素を取り込んだ音楽で高い人気を得た。
ドアーズは1965年にロサンゼルスで、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の映画学科に通っていたモリスンとレイ・マンザレクRay Manzarek (1939―2013、キーボード)の出会いから生まれた。さらにロビー・クリーガーRobbie Krieger(1946― 、ギター)とジョン・デンズモアJohn Densmore(1944― 、ドラム)が加わり、グループ名はオルダス・ハクスリーの『知覚の扉』The Doors of Perception(1954)に引用されたウィリアム・ブレイクの詩の一節からとられた。ウェスト・ハリウッドの歓楽街サンセット・ストリップ地区のクラブで活動を始め、有名なクラブ、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーに出演中、エレクトラ・レーベルの社長ジャック・ホルツマンJac Holzman(1931― )に認められ、契約をかわす。
1967年にデビュー曲「ハートに火をつけて」がいきなりヒット・チャート・ナンバーワンになり、全米の注目を集める。同年のデビュー・アルバム『ザ・ドアーズ』に収録された、エディプス・コンプレックスに基づく欲望を叫ぶ「ジ・エンド」は人々に大きな衝撃を与え、論議を巻き起こした。この曲はフランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』(1979)に使われ、改めて強い印象を残すことになる。
ドアーズの音楽の骨格はブルースにあり、モリスンの歌唱やパフォーマンスもブルース歌手の性的魅力を誇示する態度から多くを学んでいる。しかし、「ハートに火をつけて」の印象的なバロック音楽風のオルガンやモード・ジャズの即興演奏に影響された長い間奏に明らかなように、彼らはブルース以外のさまざまな音楽の影響も取り入れ、作品を独創的なものにしていた。「マイルス・デービス、ジョン・コルトレーン、マディ・ウォーターズ、ストラビンスキーを一つに包んだ」とマンザレクは自分たちの音楽を形容していた。また、モリスンの文学や演劇への興味もドアーズの個性となった。クルト・ワイルとベルトルト・ブレヒトによるオペラ『マハゴニー市の興亡』から「アラバマ・ソング」を取り上げたセンスは、同時代の他のロック・グループにはあまりみられないものだった。
1967年に「ピープル・アー・ストレンジ」を含む2作目『ストレンジ・デイズ』Strange Daysが発表され、1968年の『太陽を待ちながら』からは「ハロー・アイ・ラブ・ユー」が2枚目の全米第1位の大ヒットとなる。だが、しだいにモリスンの飲酒や麻薬への耽溺(たんでき)が予測できない行動を引き起こすようになり、1969年のマイアミでのコンサートでは泥酔した彼が舞台上で局部を露出して逮捕されてしまう。
この事件はドアーズの活動に大きな打撃を与えたが、モリスン在籍中の最後のアルバムとなった1971年の6作目『L. A. ウーマン』では、グループが創造性を取り戻し、優れた作品をつくり上げた。そしてモリスンは有名人としての暮らしから逃避し、詩人としての活動に専念すべくパリに移住したが、1971年同地で心臓発作のために死亡。麻薬の過剰摂取が原因とみられた。残された3人はグループを存続させ、2枚のアルバムを発表するが、1973年に解散した。
ドアーズの音楽は1970年代後半から1980年代のニュー・ウェーブに大きな影響を与え、モリスンは時代を超えた偶像となった。そして、1980年のジェリー・ホプキンズJerry Hopkinsらによる伝記『ジム・モリスン――知覚の扉の彼方へ』No One Here Gets Out Aliveの発売をきっかけに、人々のドアーズへの興味が再燃し、現役時代以上にレコードが売れ、未発表のライブ音源の掘り起こしも始まった。1991年にはオリバー・ストーン監督によって映画『ドアーズ』が制作され、ドアーズ・リバイバルにさらに拍車をかけた。
[五十嵐正]
『ジェリー・ホプキンス、ダニエル・シュガーマン著、野間けい子訳『ジム・モリスン――知覚の扉の彼方へ』(1991・シンコー・ミュージック)』