モリソン(読み)もりそん(英語表記)Robert Morrison

デジタル大辞泉 「モリソン」の意味・読み・例文・類語

モリソン(George Ernest Morrison)

[1862~1920]英国のジャーナリストオーストラリア生まれ。「ロンドン‐タイムズ」紙北京駐在員、のち中華民国政府顧問。中国滞在中に収集した極東関係の図書はモリソン文庫として、東洋文庫に収蔵されている。

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精選版 日本国語大辞典 「モリソン」の意味・読み・例文・類語

モリソン

  1. [ 一 ] ( Robert Morrison ロバート━ ) イギリス人の宣教師。中国名、馬礼遜。一八〇七年、プロテスタント宣教師として初めて中国に派遣される。通訳などを務めながら、一八二〇年にマラッカに英華学院を開設した。「中国語辞典」を編集し、新約聖書の漢訳「神天聖書」を著わした。(一七八二‐一八三四
  2. [ 二 ] ( George Ernest Morrison ジョージ=アーネスト━ ) イギリスのジャーナリスト、旅行家。オーストラリア生まれ。「タイムズ」北京特派員として活躍。中華民国総統府政治顧問。当時収集した極東関係の文献はモリソン文庫として知られ、現在、東洋文庫に収められている。(一八六二‐一九二〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「モリソン」の意味・わかりやすい解説

モリソン(Van Morrison)
もりそん
Van Morrison
(1945― )

イギリスのミュージシャン。ブルースやリズム・アンド・ブルース、ソウル・ミュージック、ジャズなどを完全に消化したまったく独自の唱法により、非黒人としては最高のソウル・シンガーの一人という不動の評価を1960年代から維持してきた。

 ベルファスト生まれ。母親はブルース、ジャズ・シンガー、父親はジャズやブルースのレコードのコレクターとして地元でも有名であった。そんな家庭環境もあって幼少時から音楽に夢中になり、ギターやサックスなどをマスター、14歳で学校をやめて地元のバンド、モナークスに加入し、本格的にプロ・ミュージシャンとしてスタートする。そして1963年にゼムを結成し、イギリスのデッカ・レコードと契約を結ぶ。ロンドンに拠点を移して、1965年にデビュー・アルバム『ゼム』を発表。リズム・アンド・ブルースやソウル・ミュージックを基調としたビート・バンドとして一躍注目を集めた。しかし、メンバー交替が激しくバンドのとしての一体感がなかなか持続しなかったため、1966年のセカンド・アルバム『ゼム・アゲイン』を発表してまもなく、モリソンはゼムを脱退、以後ソロ・アーティストへと転じる。

 ゼムのプロデューサーであったバート・バーンズBert Berns(1929―1967)の招きでアメリカに渡ったモリソンは、バーンズが設立したバング・レーベルから、1967年にソロ・デビュー・アルバム『ブロウイン・ユア・マインド』を発表、そこからのシングル・カット曲「ブラウン・アイド・ガール」を大ヒットさせた後、ワーナーへ移籍し、いよいよ本格的にソロ・キャリアを積んでいくことになる。その第一弾として、ジャズ・ベーシストのリチャード・デービスRichard Davis(1930―2023)やモダン・ジャズ・カルテットのドラマー、コニー・ケイConnie Kay(1927―1994)など、おもにジャズ畑のミュージシャンたちをバックにして、ほとんど一度の録音でつくられたアルバム『アストラル・ウィークス』(1968)は、軽やかなアンサンブルとモリソンのソウルフルなボーカルが臨機応変に絡み合った歴史的傑作として長く聴き継がれている。

 以後も『ムーンダンス』(1970)や『テュペロ・ハニー』(1971)などの傑作を次々と発表したが、彼の表現は、黒人音楽を完全に消化したブルーアイド・ソウル(白人によるソウル・ミュージック)というだけでなく、自身のアイデンティティをどこまでも深く探求していこうとするスピリチュアルな旅でもあった。とりわけ、ケルト人としてのアイデンティティに対する意識は作品に反映され、1974年の『ヴィードン・フリース』あたりから徐々に表面化し、1980年の『コモン・ワン』以降さらに強まり、アイリッシュ・トラッド・バンドのチーフタンズと組んだ1988年の『アイリッシュ・ハートビート』で頂点に達した。その後もモリソンの歌は、リズム・アンド・ブルースともソウル・ミュージックともジャズともロックともフォークともつかない不思議な振幅をもつ一種の聖歌として、多くの人を魅了し続ける。

[松山晋也]

『ジョニー・ローガン著、丸山京子訳『ヴァン・モリソン 魂の道のり』(1994・大栄出版)』


モリソン(Robert Morrison)
もりそん
Robert Morrison
(1782―1834)

中国本土最初のプロテスタント伝道者。イギリス人。中国名は馬礼遜。ロンドン伝道協会The London Missionary Society所属。1807年マカオ着。中国は当時キリスト教禁制下にあったため、東インド会社の中国語通訳やイギリス商務館の主席通訳官などをして伝道経費を補う。1816年イギリスの通商使節アマーストの北京(ペキン)での外交交渉にも通訳として同行した。広東(カントン)などでの伝道25年で得た受洗者わずかに10名といわれるが、『新約聖書』の中国語訳を刊行(1813)、ミルンWilliam Milne(1785―1822。中国名は米憐)と分担で『旧約聖書』を翻訳、『神天聖書』(中国語訳新旧約聖書全巻)を完成したこと(1823)、『中国語辞典』A Dictionary of the Chineseの刊行(1822)、また、ミルンと協同でマラッカに将来の中国伝道のために英中学院Anglo-Chinese College を創設したこと(1818)などから、プロテスタントの中国伝道の礎石を築いたとされている。

[冨倉光雄 2018年2月16日]


モリソン(Herbert Stanley Morrison)
もりそん
Herbert Stanley Morrison
(1888―1965)

イギリスの政治家。14歳のときから店員などをして働きながらロンドンの労働党で活動、1923年労働党下院議員となった。1929年マクドナルド内閣の運輸相に就任、1935年には党首の座をねらったがアトリーに敗れた。第二次世界大戦中、供給相、内相を歴任。戦後はアトリー内閣の副首相兼枢密院議長を務め、1951年には短期間ながら外相となった。

[木畑洋一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モリソン」の意味・わかりやすい解説

モリソン
Morrison, Toni

[生]1931.2.18. オハイオ,ロレーン
[没]2019.8.5. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の作家,編集者。本名 Chloe Anthony Wofford。アフリカ系アメリカ人として中西部で育ち,1953年ハワード大学を卒業,1955年コーネル大学で英文学修士号を取得。テキサス南部大学で 2年間教えたのち,1957~64年ハワード大学でも教壇に立った。1965年から出版社ランダムハウスの文芸編集者として若手の黒人女流作家の育成に力を注いだ。1984年からニューヨーク州立大学で教え,1989~2006年プリンストン大学人文科学部教授。第1作『青い眼が欲しい』The Bluest Eye(1970)は青い眼が欲しいという妄想にとりつかれた黒人少女の悲劇を綴った小説。第2作『スーラ』Sula(1973)では共同体のなかでの友愛の力と協調への期待を探った。自己のアイデンティティを追求する青年を主人公にした『ソロモンの歌』Song of Solomon(1977)で全米図書批評家賞とアメリカ芸術院賞を受賞,『タール・ベイビー』Tar Baby(1981)を経て,1987年『ビラブド,愛されし者』Belovedでピュリッツァー賞を受賞。幻想的かつしなやかで詩的な文体,神話の織りなす豊かさが物語に力強さと独自の作風を生んだ。白人支配かつ男性優位のアメリカ社会のなかで黒人女性としての存在を主張し続け,1993年ノーベル文学賞(→ノーベル賞)を受賞。2012年には大統領自由勲章を受章した。

モリソン
Morrison, Robert

[生]1782.1.5. ノーサンバーランド,モーペス
[没]1834.8.1. 広州
イギリスの宣教師,中国学者。 1807年長老派牧師に任じられ,広東に宣教に出発,プロテスタンティズムの中国宣教の基礎をつくった。2年足らずで中国語に精通し,09年イギリス東インド会社の翻訳官となり,牧師のかたわら生涯この職にあった。著作としては『シナ語文法』A Grammar of the Chinese Language (1815) ,『シナ語辞典』A Dictionary of the Chinese Language,in Three Parts (3巻,15~23) ,聖書の中国語訳 (21) などがある。モリソンの名は当時すでに日本にも知られており,江戸幕府によるアメリカ商船『モリソン』号撃退事件を高野長英がモリソンと誤解し,渡辺崋山らと幕府の態度を批判したが,これが蛮社の獄の一因となった。

モリソン
Morrison, Herbert Stanley, Baron Morrison of Lambeth

[生]1888.1.3. ロンドン
[没]1965.3.6. ケント,シドカップ
イギリスの政治家。小学校を出たのち商店などで働き,1908年労働党入党。 14年労働党ロンドン支部非常勤書記,第1次世界大戦に反対,良心的兵役拒否をした。 23~24,29~31,35~59年下院議員,29~31年運輸相,40年 W.チャーチル戦時内閣の供給相,40~45年内相,治安相,45~51年 C.アトリー内閣の副首相,枢密院議長,下院院内幹事,51年外相,51~55年労働党副党首。ロンドン地区党組織拡充に貢献し,理論家としても知られた。

モリソン
Morrison, George Ernest

[生]1862.2.4. ジーロング
[没]1920.5.30. デボラン
オーストラリアの新聞記者,医者。モロッコと母国で医者をしていたが,1895年『ロンドン・タイムズ』通信員となり,東南アジアで活躍。 97年北京におもむき,1912年中華民国政府顧問となって,民国育成に尽力。また,パリ講和会議に中国代表顧問として出席。彼が集めた極東関係の文献はモリソン文庫として名高く,17年岩崎久弥がこれを購入して,東洋文庫設立の基礎とした。

モリソン
Morrison, William Ralls

[生]1825.9.14. イリノイ,ウォータールー近郊
[没]1909.9.29. イリノイ,ウォータールー
アメリカの法律家,政治家。 1863~65,73~87年イリノイ州選出の民主党連邦下院議員をつとめ,保護関税を非難。 87~97年州際通商委員会メンバー,その間 92~97年その委員長として,鉄道の特権,差別運賃,リベートなどを攻撃した。

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百科事典マイペディア 「モリソン」の意味・わかりやすい解説

モリソン

オーストラリア生れの新聞記者。英国のエディンバラ大学卒業後医者となるが,南洋諸島やビルマ(現ミャンマー),パミールなどを旅し,旅行記を発表。1893年中国に入り,1895年英国紙《タイムズ》の通信員となってインドシナとシャム(タイ)で活躍,1897年北京特派員になった。精力的な活動と的確な政治判断で北京の外国人社会では〈中国のモリソン〉といわれた。英国の帝国主義政策の信奉者として,中華民国成立後は袁世凱の権力を歓迎,1912年総統政府の政治顧問となった。第1次大戦のパリ講和会議では中国代表顧問を務めている。中国語は話せなかったが,中国滞在中に極東に関するヨーロッパ語の文献を収集,1920年の帰国までにその成果は2万5000部に達し,〈モリソン文庫〉として北京の自宅で研究者に開放していた。1917年三菱の岩崎久弥がこれを買収,家蔵の岩崎文庫に加えて,1924年財団法人〈東洋文庫〉を設立した。著書に《中国のオーストラリア人》(1895年)がある。

モリソン

英国の宣教師。中国プロテスタント伝道の開祖。中国名は馬礼遜。ロンドン伝道会から派遣されて1807年マカオに上陸。1809年―1834年イギリス東インド会社の通訳官。ミルン,のちメドハーストも加わり聖書を中国語訳。1818年マラッカに英・華の文学を研鑽(けんさん)する英華学院を設立,広州を中心に布教。著書《中国語辞典》3巻(1817年―1823年),《神天聖書》(1823年)。息子のジョン・ロバート・モリソン〔1814-1843〕は英国貿易監督庁の中国語通訳官兼書記官という父の地位をつぎ,中国語訳聖書の改訂に努力した。

モリソン

米国のアフリカ系女性作家。アフリカ系アメリカ人の文化と歴史,その社会における生のあり方を,スケールの大きな巧みな筆致の小説で描き,性や人種など,多様な問題を鋭く提起している。1970年《青い目が欲しい》でデビュー。1977年《ソロモンの歌》で全米書評家協会賞,1988年《ビラブド》(1987年)でピュリッツァー賞受賞。1993年ノーベル文学賞。他に《スーラ》(1973年),《タール・ベイビー》(1981年),《ジャズ》(1992年)など。

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改訂新版 世界大百科事典 「モリソン」の意味・わかりやすい解説

モリソン
George Ernest Morrison
生没年:1862-1920

オーストラリア生れの新聞記者。最初,母国やモロッコで医師をしていたが,1895年英国紙《タイムズ》通信員となり,インドシナとシャム(タイ)で活躍,97年(光緒23),北京特派員に転じた。精力的な活動と政治判断の的確さで北京の外国人社会に勢力をふるい,〈中国のモリソン〉といわれた彼はイギリスの帝国主義政策の信奉者として,日露戦争では日本に好意を示し,中華民国成立後は袁世凱の強大な権力を歓迎して,その政治顧問に就任し,第1次大戦のパリ講和会議には中国代表顧問をつとめた。彼は中国語を話せなかったが,極東に関するヨーロッパ語文献を収集し,20年余の収集の成果は2万5000部に達した。彼は北京の自宅でこの図書を〈モリソン文庫〉として研究者に公開しその便に供した。1917年,岩崎久弥はこの文庫を購入し,家蔵の岩崎文庫を加えて財団法人,東洋文庫を設立した。
執筆者:


モリソン
John Robert Morrison
生没年:1814-43

イギリスの中国専門家。中国伝道の草分けロバート・モリソンの第2子としてマカオに生まれ,イギリスとマラッカで教育を受けた。1834年,父の死とともに,そのイギリス貿易監督庁の中国語通訳官兼書記官の地位をついだ。積極的に中国伝道を援助し,父の遺志をついで,その中国語訳聖書(《神天聖書》1823)の改訂に努力した。メドハースト,ギュツラフブリッジマンの協力を得た聖書の第1次改訂(1839年3月~42年8月)といわれるものがそれである。その成果は一応《新遺詔書》(バタビア,1837,メドハースト訳),《旧遺詔書》(1855,ギュツラフ訳)とみなされる。
執筆者:

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「モリソン」の解説

モリソン
Robert Morrison 馬礼遜

1782~1834

イギリス人。中国でのプロテスタント伝道の開拓者。1807年中国のマカオに渡り,漢英辞典や漢訳聖書の作成,伝道事業に一生を捧げ,プロテスタントの中国伝道の基礎を築いた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

367日誕生日大事典 「モリソン」の解説

モリソン

生年月日:1862年2月4日
オーストラリア生まれのイギリスのジャーナリスト,医者
1920年没

モリソン

生年月日:1887年7月9日
アメリカの歴史家
1976年没

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