ハート(英語表記)heart

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デジタル大辞泉 「ハート」の意味・読み・例文・類語

ハート(heart)

心臓。「ハートが高鳴る」
心。感情。「ハートのこもったもてなし」「暖かいハートの持ち主」
愛情。恋心。「ハートを射止める」
トランプの♥の模様。また、その模様のついた札。
[類語]精神こころ知情意心神内心心情心魂内面良心マインドスピリットエスプリメンタル心的内的精神的内面的観念的心理的知能心理精神力メンタリティースピリチュアル精魂気迫神気気概気力意力意志神経気構え気持ち理念思想気風気性きしょう心性さが

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精選版 日本国語大辞典 「ハート」の意味・読み・例文・類語

ハート

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] heart )
  2. 心。感情。また、愛情。おもいやり。
    1. [初出の実例]「智恵(インテレクト)の仕業で情(ハート)が少(ちっ)とも働かないから」(出典:くれの廿八日(1898)〈内田魯庵〉五)
  3. トランプの紋票の一つ。心臓を象徴する赤い「」のしるし。また、それのついた札。
    1. [初出の実例]「ハートの透かしのある小池の手紙が」(出典:兵隊の宿(1915)〈上司小剣〉四)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハート」の意味・わかりやすい解説

ハート(Oliver Simon D'Arcy Hart)
はーと
Oliver Simon D'Arcy Hart
(1948― )

イギリス出身の経済学者。ロンドン生まれ。1969年にイギリスのケンブリッジ大学キングスカレッジを卒業し(数学学士号)、1972年にイギリスのウォーリック大学で修士号、1974年にアメリカのプリンストン大学で博士号を取得した。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスやマサチューセッツ工科大学で教鞭(きょうべん)をとった後、1993年にハーバード大学教授につき、2000~2003年には同大学経済学部長を務めた。2016年、契約理論の分析モデルを確立した功績で、マサチューセッツ工科大学教授のベント・ホルムストロームノーベル経済学賞を共同受賞した。専門は契約理論、企業理論、コーポレートファイナンス、法と経済学などである。

 ハートはあらゆる事態を想定した契約を結ぶことはできないという「不完備契約incomplete contract」の分野で、予測不能なことが起きた際は、その対策を決める決定権や、決定権と密接な関係にある資産所有権が重要であることを理論的に明示した。そのうえで、決定権限や資産所有権をいかに配分するのが望ましいかを理論的に分析するモデルを導入。これを企業の買収・合併(M&A)やアウトソーシング、企業の資金調達方法や議決権の決定、企業不祥事などの企業統治(コーポレートガバナンス)、公営企業の民営化、破綻(はたん)法などの法律、政党の意思決定や投票制度などの政治学などに応用し、問題を精密に分析できるようにした。代表的な著書に『Firms, Contracts, and Financial Structure』(邦訳『企業 契約 金融構造』)がある。

[矢野 武 2017年3月21日]

『オリバー・ハート著、鳥居昭夫訳『企業 契約 金融構造』(2010・慶応義塾大学出版会)』


ハート(Sir Robert Hart)
はーと
Sir Robert Hart
(1835―1911)

イギリス外交官。中国名は赫徳(ハート)。2月20日北アイルランドのポートアダウンで、酒造業を営むヘンリー・ハートの長男として生まれる。ベルファストのクイーンズ・カレッジ在学中に、学長クラレンドン伯爵は外務大臣の任にあり、当時香港(ホンコン)総督バウリングが唱導する、中国・日本に強力な領事業務を確立すべしという提案を受け、優秀な学生の選抜を試みた。このとき抜擢(ばってき)されて、1854年香港に派遣され、貿易監督庁に勤務した。その後、イギリスの寧波(ニンポー)領事館の通訳官、広東(カントン)領事館の補佐官、アロー戦争時、広州の連合軍司令部の書記官を務めた。1859年3月広東領事館の通訳官に復帰し、6月には、新設された広東海関の副税務司となった。1863年初代総税務司レイの後を引き継ぎ、1908年に至るまで総税務司として北京(ペキン)にあり、海関業務の拡充のみならず、中国の行政・財政の近代化、さらに対外交渉の仲介などにおいて、重要な役割を果たした。総理衙門(がもん)に付設された同文館(外国語学校)の運営にもあたり、また、1875年には北京および上海(シャンハイ)海関・鎮江(ちんこう)海関に郵政部を付設し、総郵務司を兼任した。1875年の中英芝罘(チーフー)協定、1885年の清仏(しんふつ)戦争、1895年の日清戦争賠償金問題、1900年の義和団事件などにおいて中国と列国との交渉の斡旋(あっせん)を行っている。彼は「局外旁観(ぼうかん)論」「海関金単位採用」「幣制改革案」を論じ、中国の統一と安定を目ざす漸進的改革論を示している。

 1908年4月、1年間の休暇を与えられて帰国したが健康状態が悪化し、1911年9月20日、総税務司に在職のままバッキンガムシャーのマーローで永眠した。清朝滅亡の3週間前であった。

[浜下武志]


ハート(William S. Hart)
はーと
William S. Hart
(1864―1946)

アメリカの映画俳優、監督。ニューヨーク郊外の生まれ。出演作の多くは自らが監督も兼ねている。舞台俳優から50歳で映画にデビューするが、まもなく孤独感ただよう演技で西部劇スターの先駆的存在となる。また、アメリカ先住民を出演させ、セットや衣装を入念に再現することを主張、西部劇にリアリズムを導入した。俳優としての代表作に『鬼火ロウドン』(1918)、『人生の関所』(1920)、『二挺拳銃(にちょうけんじゅう)』(1923)、『曠原(こうげん)の志士』(1925)などがある。

[奥村 賢 2022年6月22日]

資料 監督作品一覧

地獄の迎火 Hell's Hinges(1916)
沈黙の人 The Silent Man(1917)
鬼火ロウドン ‘Blue Blazes’ Rawden(1918)
曠原の志士(キング・バゴットとの共同監督) Tumbleweeds(1925)


ハート(Moss Hart)
はーと
Moss Hart
(1904―1961)

アメリカの劇作家、演出家。彼の原作にG・S・コーフマンが加筆した『生涯に一度』(1930)で成功を収め、このコンビによる風刺喜劇『それを持っては行かれない』(1936。ピュリッツァー賞受賞)、ミュージカル台本『私は身を正したい』(1937)、『晩さんにきた男』(1939)など秀作が続いた。ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の演出も手がけ、単独作もあるが、『生涯に一度』上演に至るまでを描いた自伝『第一幕』(1959)は続編を期待されるほど好評であった。

[森 康尚]

『内村直也訳『晩さんにきた男』(『現代世界戯曲選集9 アメリカ篇2』所収・1954・白水社)』


ハート(Francis Bret〔t〕 Harte)
はーと
Francis Bret〔t〕 Harte
(1836―1902)

アメリカの作家。ニューヨーク州オルバニーの生まれ。父親の死後カリフォルニアに移住し、さまざまな職業を体験したのち、ジャーナリズム界に入り、1868年雑誌『オーバーランド・マンスリー』の創刊に加わり、彼自身も短編『ロアリング・キャンプの福の神』(1868)を発表して圧倒的な人気を博した。続いて『ポーカー・フラットの追放者』(1869)、『テネシーの相棒』(1869)などを矢つぎばやに世に出して、一躍時代の寵児(ちょうじ)となった。ついで東部のニューヨークに出て、同じような作品を発表し続けたが、過去の栄光はついに戻らず、筆を折るようにしてヨーロッパの各領事館に勤めたのち、ロンドンで客死。彼の作品では初期の短編がもつ、社会からのけ者にされた賭博(とばく)師や荒くれ者たちの、怨念(おんねん)を超えた人間的な強さ優しさがみなぎる作品が最上であり、擬古的な文体ではあるが、地方色文学の先駆けとして名高い。

[亀山照夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「ハート」の意味・わかりやすい解説

ハート
Robert Hart
生没年:1835-1911

イギリスの外交官,清国の総税務司。中国名は赫徳。北アイルランドのアルスター生れ。1853年ベルファストのクイーンズ・カレッジを卒業,翌年無試験推薦によって中国通訳生となり香港に赴く。寧波(ニンポー),広州で通訳官として勤務しながら外交実務を学ぶうち,1859年(咸豊9)両広総督・労崇光の推薦によって広東海関の副税務司となる。61年に総税務司のH.N.レイが賜暇で帰国すると,フィッツロイとともに代行を命ぜられ,まもなくレイが失脚したため1863年に第2代総税務司に就任した。外国人の管理する海関(洋関)の責任者であり,同時に清国に忠誠を誓う官吏でもあるという半独立的な地位を利用して,レイはヨーロッパ的な能率と正直さを洋関に確立すべく努力し,独裁的な権限をふるった。一方,ハートはその協調的な性格と政治的洞察力により中国要人から深い人間的信頼をかちとり,非公式に中国政府の政治顧問に等しい役割を果たす結果となった。ビクトリア朝風の進歩の信奉者であるハートは,強い中国の創出とそのイギリスとの協調を理想としたが,内外に反対者も多く,しだいに李鴻章と対立するようになった。1906年(光緒32),事前の了解なしに総税務司の職は新設の税務処の管理下におかれ,職権は縮小された。08年,ハートは賜暇帰国し,11年,総税務司に在職のままバッキンガムシャーで死去した。
執筆者:


ハート
Herbert Lionel Adolphus Hart
生没年:1907-92

現代の英米系文化圏の法哲学を代表する学者の一人。オックスフォード大学卒業後,法廷弁護士,母校の哲学講師を経て同大学法理学教授(1952-68)。彼の法哲学の特質は,当時同校で支配的であったいわゆる日常言語学派分析哲学の手法を分析法理学に導入し,伝統的な命令説(法を命令の一種とする考え方)よりも法現実に忠実な法理論の構築を試みたことにある。彼は,言葉の意味とはその指示対象であるとする説を排し,意味を言葉の日常的用法とその背景に見いだすことによって,権利・責任等の法的概念の実体化・物象化的解釈をしりぞけた。その主著《法の概念》(1961)では,上記の分析手法を法秩序全体に及ぼし,おおむね法実証主義的観点からルール概念を中心としたユニークな法体系論を展開した。一方,彼はイギリスに伝統的な自由主義の見地から,刑法における責任原理の廃棄や法による道徳の強制といった傾向に反対する。この道徳的立場と彼の哲学的・法理論的立場との関係をめぐる諸問題は多面的に論じられ,法哲学全般にわたって重要な成果をもたらす契機となった。
執筆者:


ハート
Bret Harte
生没年:1836-1902

アメリカの小説家。本名Francis Brett Harte。ニューヨーク州オルバニーでユダヤ人を父に生まれたが,家庭的に恵まれず,1854年には金鉱発見でわきたつ西部カリフォルニアに赴き,さまざまな職業を経て,新聞記者,雑誌編集者となった。そのかたわら,金鉱地帯の荒くれ男や,娼婦,博徒たちの人間味と純情さを,すぐれた技巧とペーソスを用いて描いた短編を発表し,爆発的な人気を呼んだ。そうした短編は代表作《ロアリング・キャンプのラック》(1870)に収録されている。71年,東部の代表的な雑誌《アトランティック・マンスリー》に年収1万ドルの高給で迎えられたが,期待された活躍はみられず,78年以降は文壇を離れて,プロシア,スコットランド駐在領事を務め,晩年はロンドンで暮らした。一時は,マーク・トウェーンをもしのぐ西部の人気作家であり,ビアス,オー・ヘンリーと並ぶ短編の名手であったが,現在では,西部の〈地方色(ローカル・カラー)〉文学の一面を示す通俗作家としてしか評価されなくなった。
執筆者:


ハート
Moss Hart
生没年:1904-61

アメリカの劇作家。ニューヨークに生まれ,早くから劇界に入った。ハリウッドを風刺した《一生でただ一度》(1930)がヒットして以来,G.S.カウフマンと合作を続け,功利主義を皮肉った《わが家の楽園》(1936),奇行の随筆家ウルコットをモデルにした《晩餐に来た男》(1939)などすぐれた喜劇を多く書いた。ミュージカルの台本も執筆し,また演劇的自叙伝《第一幕》(1959)がベストセラーになった。そのほかミュージカル《マイ・フェア・レディ》の演出なども手がけた。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハート」の意味・わかりやすい解説

ハート
Hart, Oliver

[生]1948.10.9. ロンドン
イギリス生まれのアメリカ合衆国の経済学者。フルネーム Oliver D'Arcy Hart。父はイギリスの著名な医学者,曾祖父は男爵の称号をもつユダヤ系銀行家で自由党の下院議員サミュエル・モンタギュー。1969年にケンブリッジ大学キングズ・カレッジで数学の学士号,1972年にウォーリック大学で経済学の修士号,1974年にプリンストン大学で経済学の博士号を取得した。1974~75年にエセックス大学で,1975~81年にケンブリッジ大学で教鞭をとったあと,1981~85年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの,1985~93年にマサチューセッツ工科大学の経済学教授を務めた。以降はハーバード大学で教鞭をとり,1997年から同大学のアンドルー・E.フラー記念経済学教授。雇用契約や保険契約,およびビジネスや商取引における「情報の非対称性」,のちに「不完備契約」と呼ばれるようになった,当事者が前もって詳細な条件を準備することができない契約に関する問題の解決に貴重な貢献をした。ハートによると,そのような状況下で当事者同士が合意できない場合,だれが決定権をもつかを契約に明記すべきであるという。また,みずからの理論を応用して,刑務所システムの民営化を唱えた。2016年,契約理論への功績により,フィンランドの経済学者ベント・ホルムストロムとともにノーベル経済学賞(→ノーベル賞)を授与された。

ハート
Hurt, William

[生]1950.3.20. ワシントンD.C.
アメリカ合衆国の俳優。レパートリー・シアターで演じたのち,『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』Altered States(1980)で映画デビューを果たす。『白いドレスの女』Body Heat(1981)で初主演。『蜘蛛女のキス』Kiss of the Spider Woman(1985)で同性愛者の囚人を演じ,アカデミー賞主演男優賞を受賞した。『愛は静けさの中に』Children of a Lesser God(1986),『ブロードキャスト・ニュース』Broadcast News(1987),『ヒストリー・オブ・バイオレンス』A History of Violence(2005)の演技も高く評価された。ほかの出演作品として『偶然の旅行者』The Accidental Tourist(1988),『スモーク』Smoke(1995),『母の眠り』One True Thing(1998),『シリアナ』Syriana(2005),『イントゥ・ザ・ワイルド』Into the Wild(2007)などがある。テレビドラマ『デューン/砂の惑星』Dune(2000),『ダメージ』Damages(2009),テレビ映画『史上最大のスパイ事件』Master Spy: The Robert Hanssen Story(2002)などにも出演。

ハート
Harte, (Francis) Bret

[生]1836.8.25. ニューヨーク,オールバニ
[没]1902.5.5. ロンドン
アメリカの作家。少年時代は一家とともに各地を転々とし,1854年にカリフォルニアに移住。 68年『オーバーランド・マンスリー』誌の創刊とともにその主筆となった。ここに発表した代表的短編『ロアリング・キャンプのラック』 The Luck of Roaring Camp (1868) ,『ポーカー・フラットの追放者たち』 The Outcasts of Poker Flat (69) ,『テネシーの相棒』 Tennessee's Partner (69) などはいわゆる地方色に富む小説の先駆として有名。 70年にはそれらを集めた『ロアリング・キャンプのラックその他』を出版。 71年東部に移ってからは作家としてはふるわず,78年プロシアのクレフェルト,80年グラスゴー駐在領事となり,85年以後ロンドンで余生をおくった。ほかに滑稽詩『正直者ジェームズは語る』 The Plain Language From Truthful James (70,『野蛮なシナ人』 The Heathen Chineseともいう) 。

ハート
Hearts

取らなければ取らないほど勝ちというカードゲーム。18世紀に行なわれていたリバーシ Reversiがその起源とされ,1880年頃アメリカ合衆国で発展した。普通 4人でプレーする。ジョーカーを除く 52枚のカードを時計回りに 1枚ずつ全部配る。配り手の左隣から打ち出し,打ち出されたのと同じマークのカードがあれば必ず出さなければならない。なければ他のカードを代わりとするが,出しても勝てない。カードの強さは A,K,Q,J,10,…,2の順。1巡目に勝った人が次の打ち出しをする。こうして終わりまでプレーし,取った ♡ の枚数の最も少ない者を勝ちとする。チップを使う方法では,一勝負終了後に勝ったカードのなかの ♡ 1枚につきチップ 1枚を場に払い,♡ を 1枚も取らなかった者が全チップ 13枚を取る。全員が ♡ を取ったらチップを次回に持ち越す。1人で ♡ 13枚全部取ったらチップを払わなくてよい。ハートの変形の一つにブラック・レディ・ハート Black Lady Heartsがある。これは ♡以外に ♠ Qもマイナス札とし,1枚でマイナス13に数える。

ハート
Hart, Moss

[生]1904.10.24. ニューヨーク,ニューヨーク
[没]1961.12.20. カリフォルニア,パームスプリングズ
アメリカ合衆国の劇作家,演出家。ジョージ・コーフマンと合作で『一生にただ一度』Once in a Lifetime(1930),『それを持っては行けない』You Can't Take It with You(1936,ピュリッツァー賞)などの喜劇を書き,単独ではミュージカル『レディ・イン・ザ・ダーク』Lady in the Dark(1941)が有名。演出家としては『マイ・フェア・レディ』My Fair Lady(1956),『キャメロット』Camelot(1960)が代表作。自伝 "Act One"(1959)がある。

ハート
Hart, Albert Bushnell

[生]1854.7.1. ペンシルバニア,クラークスビル
[没]1943.6.16. マサチューセッツ,ベルモント
アメリカの歴史家。 1880年ハーバード大学卒業。パリ,ベルリンで学び,83年フライブルク大学で学位を得,同年よりハーバード大学で教鞭をとり,97~1926年同大学の歴史学,政治学の教授をつとめた。 09年アメリカ歴史学会会長,12年アメリカ政治学会会長となった。約 100冊に及ぶ著書,共著,編纂叢書があり,『アメリカ国民叢書』 American Nation (28巻,1903~18) を編集。主著『アメリカ外交政策の基礎』 The Foundations of American Foreign Policy (1892) 。

ハート
Hart, Sir Robert

[生]1835. アルスター
[没]1911
中国,清代の税関 (→海関 ) 行政の最高責任者となったイギリスの外交官。中国名は赫徳。北アイルランド出身。咸豊4 (1854) 年通訳として中国に赴任,同9年広東の副税務司となり,同治2 (63) 年総税務司に昇任。海関制度の整備に努めたほか,清朝の外交,財政,通商にも大きな発言力をもち,また母国の利害をよく代弁した。のち,清朝が総税務司を外務部から「税務処」の管轄に移したことに不満で,光緒 34 (1908) 年休暇で帰国し,在職のまま死んだ。

ハート
Hart, Herbert Lionel Adolphus

[生]1907.7.18.
[没]1992.12.19.
イギリスの法哲学者。オックスフォード大学を出て弁護士となったが,第2次世界大戦後は母校に戻って教職についた。いわゆる日常言語学派の代表的な哲学者であり,その方法を法哲学に導入し,ルールという観念を用いて法の歴史的,社会的な構造と機能を解明した。法の定義ないし認識と評価とを区別し,法実証主義の主張を純化した。主著『法の概念』 The Concept of Law (1961) 。

ハート
Hart, Charles

[生]?
[没]1683.8. ミドルセックス,スタンモア
イギリスの俳優。シェークスピアの甥である俳優 William Hartの息子とされている。初めブラックフライアーズ座やキリグルー一座の少年俳優として女方を演じていたが,成人後はオセロやブルータスで好評を博した。S・ピープスの『日記』のなかでよく言及されている。

ハート
Hart, William Surrey

[生]1870.12.6. ニューヨーク,ニューバーグ
[没]1946.6.23. カリフォルニア,ニューホール
アメリカの映画俳優。巡業劇団の役者から映画に転じ,重厚な性格表現で無声映画時代の最高の西部劇スターとなった。制作,監督を兼ねた場合が多い。主演作品『鬼火ロードン』 (1918) ,『人生の関所』 (20) ,『二丁拳銃』 (23) 。

ハート
Hart, John

[生]1711頃.コネティカット,ストーニンタン
[没]1779.5.11.
アメリカ独立革命期の政治家。独立宣言署名者の一人。 1761~71年にニュージャージー植民地議会議員をつとめ,76年大陸会議ニュージャージー代表として活躍した。 77~78年ニュージャージー保安委員会委員長。

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百科事典マイペディア 「ハート」の意味・わかりやすい解説

ハート

英国の財政家,外交官。中国名は赫徳。北アイルランドの出身。1854年通訳生として香港に赴任。清朝高官の信任を得て,1863年中国総税務司となり,政治顧問として関税制度の改革と確立に活躍。清仏戦争の講和,義和団事件の解決などで,諸国間の利害調整に大きな役割を果たした。

ハート

米国の作家。多くの職業を経て,サンフランシスコで雑誌編集者となり,《ロアリング・キャンプのラック》(1870年)等,地方色豊かな物語や滑稽詩を書く。のちロンドンで活動。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ハート」の解説

ハート
Robert Hart 赫徳

1835~1911

イギリスの外交官,清国の海関総税務司。1854年から寧波(ニンポー)広東の領事館勤務をへて,59年,清国海関の勤務に転じ,63年総税務司に就任,1911年まで在任した。海関行政のほか,清国の外交・財政方面にも貢献するところが大きかった。

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日本の企業がわかる事典2014-2015 「ハート」の解説

ハート

正式社名「ハート株式会社」。英文社名「Heart Corporation」。卸売業。昭和10年(1935)前身の「田中名刺紙店」創業。同31年(1956)「ハート名刺株式会社」設立。同45年(1970)現在の社名に変更。本社は大阪市中央区和泉町。紙製品販売会社。主力は封筒。ほかに名刺用紙・私製ハガキ・カード・カレンダーなど。全国に支店を展開。

出典 講談社日本の企業がわかる事典2014-2015について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ハート」の解説

ハート
Sir Robert Hart

1835〜1911
イギリス人で清国の総税務司
1854年中国に渡り,63年から総税務司となって,近代的管理方法による新しい海関を組織した。また,清国の非公式の政治顧問として,対外交渉における各国の利害の調整にあたった。

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デジタル大辞泉プラス 「ハート」の解説

ハート〔カクテル〕

新潟県糸魚川市で2014年から提供されているご当地カクテル、ヒスイカクテルのひとつ。地酒「根知男山」をベースとする翡翠色のカクテル。自然の緑をイメージ。混ぜる材料は抹茶リキュール、洋ナシのシロップなど店舗により異なる。

ハート〔ドラマ〕

日本のテレビドラマ。放映はNHK(2001年9月~11月)。全10回。脚本:金谷祐子ほか。音楽:本間勇輔。出演:陣内孝則、黒川芽以、櫻井淳子ほか。

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367日誕生日大事典 「ハート」の解説

ハート

生年月日:1907年7月18日
イギリスの哲学者,法哲学者
1992年没

ハート

生年月日:1834年2月20日
イギリスの外交官
1911年没

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世界大百科事典(旧版)内のハートの言及

【トランプ】より

…1パックのカードは幾種類かのマークに分類され,それぞれのマークのひとそろいをスートと呼ぶ。スペード,ハート,ダイヤ,クラブの4スートからなる1パック52枚のカードが国際的に通用し,スタンダード・パックとされているが,これはフランスを起源にしたものである。スペインでは40枚のパック,ドイツ,フランスでは32枚のパックがいまでも販売されている。…

【分析法学】より

…分析法学は,オースティン以後,W.マークビー,T.E.ホランド,F.ポロック,J.W.サーモンドらによって受け継がれ,H.J.S.メーンに始まる歴史法学と並んでイギリスの二大法思潮の一翼を形成するに至ったが,主権者命令説は,分析法学派の潮流のなかで批判され,修正・変貌の過程をたどる。20世紀の後半のH.L.A.ハートの法理論は,オックスフォード学派の哲学を基盤とするものであるが,分析法学の系譜を継ぐものとして,しばしば現代分析法(理)学と呼ばれている。しかし,ハートも法命令説は否定している。…

【総税務司】より

…天津条約では外国人税務司を全開港場に置くことが約され,同年上海欽差大臣何桂清(1816‐62)は,イギリスの関税委員であったレイHoratio Nelson Layを初代総税務司に任命し,1861年に総理衙門が設立されると,恭親王は改めてレイを総税務司に任命した。63年にはハートRobert Hartが2代目総税務司に就任した。65年(同治4)に事務所が上海から北京に移されたが,彼は1907年(光緒33)に引退するまで,海関行政のみならず,清朝政府の外国借款を仲介するなど外交手腕を発揮した。…

【総税務司】より

…天津条約では外国人税務司を全開港場に置くことが約され,同年上海欽差大臣何桂清(1816‐62)は,イギリスの関税委員であったレイHoratio Nelson Layを初代総税務司に任命し,1861年に総理衙門が設立されると,恭親王は改めてレイを総税務司に任命した。63年にはハートRobert Hartが2代目総税務司に就任した。65年(同治4)に事務所が上海から北京に移されたが,彼は1907年(光緒33)に引退するまで,海関行政のみならず,清朝政府の外国借款を仲介するなど外交手腕を発揮した。…

※「ハート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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