日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ドイツ・オーストリア合邦
どいつおーすとりあがっぽう
Anschluß ドイツ語
1938年3月13日のヒトラーによるドイツへのオーストリア編入、およびここに帰結するドイツとオーストリアとの合邦を目的とした運動をいう。オーストリア合併、あるいはアンシュルスともよばれる。19世紀、ドイツ・ナショナリズムの台頭とともに政治的統一の方式として、オーストリアを中心とする大ドイツ主義をとるか、またはプロイセンの指導する小ドイツ主義をとるかが大きな問題となった。だが、1848年の三月革命が失敗し、オーストリアはハンガリーと二重王国(帝国)を形成し(1867)、小ドイツ主義的なドイツ帝国(第二帝国)が成立する(1871)に至って、統一問題は現実的に解決され、ここにいう合邦問題を残すこととなった。
1918年、第一次世界大戦における敗北の結果、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、オーストリアにはドイツ共和国との合邦を求める声が高まり、国民議会もこれを決議した。民族自決を掲げる新たなナショナリズムの刺激もあるが、小国家としての経済的存続能力が疑われたからである。ドイツ国民議会もこれに対応する決議をした。だが合邦は、戦勝側の連合国とくにフランスの反対のため実現されなかった。ベルサイユ(対独)平和条約、サン・ジェルマン(対オーストリア)平和条約は、ともに合邦を禁じたのである。31年のドイツ・オーストリア関税同盟もフランスの反対のため失敗した。33年ドイツにヒトラー・ナチス政権が成立すると、オーストリアでは合邦に批判的な意見が強まり、ドルフース首相はイタリアの独裁者ムッソリーニに依存しつつ独裁体制を強化し、内外のナチス勢力に対抗しようとした。34年7月、オーストリア・ナチスはクーデターによる合邦を企てたが、ドルフースを殺害したにとどまり、失敗した。ムッソリーニが武力で威嚇したからである。だが、エチオピア戦争、スペイン内戦干渉を機にイタリアが急速にドイツに接近すると、オーストリアのシューシュニク首相も対独関係の改善に努めざるをえず、36年7月ドイツ・オーストリア紳士協定を締結した。ここでは、ドイツはオーストリアの独立を尊重し、オーストリアは自国のナチスを認めて政権に参加させるとしていた。だが、この協定の成立は、ドイツ・オーストリア関係の調整が以後両国の力関係にゆだねられることを意味していた。
1938年2~3月のドイツ・オーストリア合邦の過程については、対独関係改善のため来訪したシューシュニクにヒトラーは、ナチス承認、軍改革、経済的同化を要求し、この受諾を迫った。シューシュニクは、ナチスのザイス・インクバルトを内相に任命するとともに、人民投票でドイツの脅威に対抗しようとしたが、内外からのナチスの圧力に屈し人民投票を中止せざるをえず、辞任した。3月12日ドイツ軍はオーストリアへ進入し、翌13日ヒトラーは合邦を宣言した。4月10日の人民投票では、投票数の約99%(約444万票)が合邦を支持した。
第二次世界大戦後、オーストリアは1955年の国家条約により独立国家として再建された。ドイツ・ナショナリズムの一表現形態としての合邦運動は、ナチス支配の過酷な現実のため決定的に民衆の支持を失い、今日ではいかなる意味でも合邦についてはもはや論ぜられない。
[吉田輝夫]