フランスの画家。本名Hilaire Germain Edgar de Gas。7月19日パリに生まれる。父は、祖父がナポリに創設した銀行のパリ支店長で、芸術の愛好者。ドガは銀行家の長男にふさわしく、名門ルイ・ルグラン中学に学び、古典の教養を積む。1853年パリ大学法学部に籍を置くが、同時にバリアスのアトリエにも通い、またパリ国立図書館の版画室で古典作品の模写をも試みる。翌年、法律の勉強を放棄し、アングルの熱烈な弟子ルイ・ラモットの画塾で本格的な修業を始めた。55年エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学。この年、父の友人バルパンソンを通じて晩年のアングルを訪ねる機会を得、生涯忘れえぬ思い出を心に刻むことになる。古典派の巨匠はドガにこう助言した。「線を引きなさい、たくさんの線を。記憶によってでも、ものを見ながらでもかまいません。」彼はアングルからデッサンを大いに学ぶが、それはドガ芸術のもっとも本質をなすものの一つといえる。初期の作品のなかでとりわけ高い芸術的達成を示しているのは、近親者や友人の肖像画だが、その現実的感覚と繊細な美的表現にアングルの影響をみるのは容易であろう。56年から60年にかけて、親族が暮らし、父が生まれたイタリアに旅し、各地を訪れ、古典作品に触れて盛んに模写を試みた。この旅行から、微妙な心理的洞察に満ちた大作『ベレッリ家の家族』が生まれる。肖像画とともに、彼は伝統的傾向に従って『少年たちに挑戦するスパルタの娘たち』など一連の歴史画に取り組む。しかし歴史画時代も65年にサロンへのデビューを飾った『オルレアン市の災禍』でほぼ終わりを告げ、彼の目はしだいに現代生活へと向けられていった。
同じブルジョア的趣味を分かちもつマネと出会い、カフェ・ゲルボワやカフェ・ド・ラ・ヌーベル・アテーヌで画家や文学者と集い、印象派展に参加する。1874年から8回開かれたこのグループ展に彼は7回も出品し、積極的な推進役ともなるが、印象派の美学に全面的に賛同していたわけではなく、外光表現にはほとんど関心がなかった。舞台や稽古(けいこ)場の踊り子、競馬の馬と騎手、婦人帽子屋や洗濯屋の女、入浴する女などが彼の主要なテーマとなる。全作品のほぼ半数を占める踊り子の作品は70年代前半から本格的に描かれ、競馬は60年代から断続的に、また浴女は80年ごろから盛んに描かれる。さまざまな人体のポーズ、大胆なトリミング、特異な視点の設定、意表をつく構図など、その作品には運動の印象に鋭く感応する画家がとらえた、動くものの一瞬の姿、生の現実が描かれている。それも単なる偶然によって切り取られた一断面ではなく、熟慮された瞬間の様相であり、卓越したデッサン力と飽くことのない努力から生まれたものである。後年、パステルを多用し、色彩画家としての側面をも遺憾なく発揮した。しかし、93年ごろから極度に視力が衰え、ほとんど失明に近い状態になったのちは、80年代から手がけていた蝋(ろう)による彫刻に没頭した。だが、それもやがて放棄し、1917年9月26日パリに没した。
[大森達次]
『高階秀爾著『現代世界美術全集6 ドガ』(1971・集英社)』▽『D・C・リッチ著、松山恒美訳『ドガ』(1961・美術出版社)』▽『ヴァレリー著、吉田健一訳『ドガ・ダンス・デッサン』(1955・新潮社)』
フランスの画家。パリの銀行家の家庭に生まれ,美術や音楽を愛好する雰囲気の中に育つ。アングルの弟子ラモートLamotheに師事し,父の友人でコレクターでもあったバルパンソンValpinçonを通じてアングルとも出会い,強い影響を受ける。1856年から60年にかけてナポリなどイタリア各地を訪れ,ルネサンス美術に深く傾倒する。ドガは絵を描きはじめたときからスケッチ帳を残し,80年代まで,中断はあるが続いており,これによれば彼の受けた影響はルネサンスやアングルらの古典主義的傾向ばかりでなく,ドラクロアやドーミエに至るまで幅広いものである。帰国後は一時歴史画を描いたがあきたらず,デュランティとの交流を通して現代生活を描くことに関心が移っていった。彼は競馬,オーケストラ,バレエなどの主題を,動物や人体の動き,前景・後景を唐突に対比させる思いがけない構図,対象を高いところから見おろす視点など,当時流行の浮世絵版画から学びとった技法を駆使して,きわめて斬新な作品を制作していった。60年代末から70年代はじめにかけて,マネ,ゾラ,セザンヌらと出会い,交遊を深める。ドガ自身は印象派芸術の中心的方法である,戸外の光の下に対象を直接にとらえてゆく制作方法をとらず,つねにアトリエで構成,制作し,また風景画も記憶や想像力によるもの以外ほとんど関心を示さなかった。しかし,印象派展と呼ばれた8回のグループ展を高く評価し,第7回展を除く全回に参加した。80年ころからはすでに述べた主題のほかに,裸婦のきわめて多様なポーズや,踊り子の群像としての動きに注目した作品を制作した。すばやく巧みな素描家であるドガはパステルを好み,色彩の織物のような豊かな輝きに到達している。彼はまた,版画のさまざまな技法や彫刻にも取り組み,ブロンズ像《14歳の小さな踊り子》(1881)ではスカートの部分に本物の布を用いるなど,斬新なアイデアで人を驚かせた。晩年は眼を病みほとんど失明に近かったが,パステルや彫刻などを細々と制作しつづけた。その皮肉で狷介だが同時に聡明で純粋な人柄は,バレリーの伝える多くのエピソードで知ることができる。独身のまま83歳でパリに没。
執筆者:馬渕 明子
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1834~1917
フランスの画家。パリ美術学校に学び,アングルやルネサンス美術に傾倒。のち印象派展にほぼ毎回出品したが,印象派とは画法を異にした。バレエの踊り子や馬などを題材に,動作の瞬間を見事にとらえた大胆な構図の作風を確立した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…第1回展が開かれたのは第三共和政になってからで,キャプシーヌ大通り35番地のナダール写真館で,〈画家,彫刻家,版画家の協同組合〉という名称のもとに1874年4月15日より1ヵ月間催されたが,この展覧会を取材した《シャリバリ》紙のルロアLouis Joseph Leroy記者が,彼らを揶揄(やゆ)する意味で,モネの《印象,日の出Impression,soleil levant》からとった〈印象主義者たちImpressionnistes〉という言葉を使ったのが,このグループの名称となった。彼らはおもに〈バティニョールの仲間たち〉といわれた,マネを中心とするレアリスムの流れをくむ人々であったが,マネはついにこのグループの展覧会には参加せず,モネ,ドガ,セザンヌ,シスレー,ピサロ,ルノアール,モリゾら30名が165点を出品した。この展覧会はジャーナリズムの興味本位の報道に刺激され,多くの観客がつめかけるなど,話題は提供したものの絵はほとんど売れずに失敗に終わった。…
…しかし,写真の像が本質的に絵画と異なる点が明らかになるにつれ,逆に20世紀に向かって絵画は独自の方向を見いだしていくが,これは同時に写真が独自性を発見してゆく道でもあった。写真を参考として利用した画家としては,クールベ,セザンヌ,アンリ・ルソー,ピカソなどがいるが,とくに積極的に公然と写真にもとづいて描いた画家としては,E.ドガやT.ロートレックがよく知られている。
[芸術写真の系譜]
上述のように当初の写真においては絵画の主題を手本とするのが当然のように考えられていた。…
※「ドガ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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