フランスの画家、版画家。後期印象派の一人とされる。11月24日、南フランスのアルビに、フランスの大貴族の一人アルフォンス・トゥールーズ・ロートレック伯爵の嫡子として生まれる。少年時代は、パリの館(やかた)やオードにある母アデール・タピエ・ド・セレイランの館で過ごすことが多く、乗馬や狩猟に親しむ貴族的な生活を送り、かたわら絵画にも早くから才能を示した。しかし、14歳から15歳にかけての二度の事故で両足を骨折して以来、下半身の成長が止まり、以後、絵画に専念し始める。当時の彼の絵の教師は、父の友人であった動物画家ルネ・プランストーで、ロートレックの描く主題も、馬、馬車などを主とし、的確な素描力、速度感の描出、光のとらえ方に早熟な天分を示している。1882年パリに出てレオン・ボナ、フェルナン・コルモンの画塾に学び、ここで、エミール・ベルナール、ゴッホに出会っている。ロートレックが新印象主義の点描法を採用したのは、ゴッホとの親交からきている。
1884年モンマルトルにアトリエを構える。彼の独自な主題であるモンマルトルの歓楽街の情景の描写が多くなり、画風も印象主義からしだいに離れる。ナビ派の画家たちとの交流とその影響もあったが、ロートレックが終始尊敬したのはドガとフォランJean-Louis Forain(1852―1931)であり、パリ風俗の、ときには辛辣(しんらつ)だが、同時に深い共感を込めた作品が描かれる。ムーラン・ド・ラ・ギャレット、ムーラン・ルージュ、ミルリトンなどのキャバレー、そこで踊るラ・グーリュとパートナーの骨なしバランタンなどの踊り手が、線描とシルエットに重点を置き、人工光線の効果を求める手法で描かれる。『ムーラン・ルージュにて』(1892・シカゴ美術館)などにみられる、視角の設定の自由さ、前景に大きなシルエットを置く構図法は、ドガとジャポニスム(日本趣味)に由来している。1892年ごろからイベット・ギルベール、メイ・ベルフォールなどの歌手たちに興味をもち、的確な線描やシルエットで彼女たちの個性やその背後の生活を表現している。また、彼自身しばしば流連(いつづけ)し、多くの友人をもった女郎屋もロートレックの主要な主題の一つとなった。フェルナンド・サーカスの曲馬師、軽業(かるわざ)師などもそうである。1890年代はロートレックの画業の成熟期であり、1893年にブソ・エ・バラドン画廊で行われた最初の個展は彼の名声を確立させた。技法的にも、カンバスだけではなく、板、紙、厚紙などに、油、揮発性のエッサンス油、水彩などを併用して描く手法を試みている。とくに、1891年にボナールに続いて試みた石版画によるポスター『ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ』以後、多くのポスターを制作、この分野に決定的な革新をもたらした。油彩の場合以上に大胆な省略とデフォルメ、クローズアップの手法は、この時期のアール・ヌーボー様式やジャポニスムに対応し、また20世紀のポスター芸術の出発点となった。彼は1892年から1899年の間に約300点の石版画を制作しているが、ここでもブラシと網目を用い、インクの飛沫(ひまつ)を利用するなど、さまざまな新手法をみいだしている。しかし、飲酒と放縦な生活は、やがて彼の精神と肉体を病ませ、1899年には病院に入院、まもなく退院したが、1901年9月9日マルロメにある母の館で没した。1922年、ロートレックの母が、残された作品約600点を生地のアルビに寄贈し、ロートレック美術館が創設された。
[中山公男]
『H・ペリュショ著、千葉順訳『ロートレックの生涯』(1979・講談社)』▽『A・フェルミジエ著、幸田礼雅訳『ロートレック――その生涯と作品』(1981・美術公論社)』▽『P・ユイスマン、M・ドルチ著、曽根元吉訳『ロートレックによるロートレック』(1965・美術出版社)』▽『D・クーパー解説、黒江光彦訳『ロートレック』(1962・美術出版社)』▽『千足伸行解説『現代世界美術全集9 ロートレック』(1970・集英社)』
フランスの画家,版画家。正式の名はド・トゥールーズ・ロートレック・モンファHenri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec Monfa。フランスでも有数の貴族の嫡子として南仏のアルビに生まれる。14~15歳の時に再度の骨折事故により下半身の成長がとまり,奇形的な体形を余儀なくされた。その前からすでにデッサンにすぐれた才能を見せていたが,これ以後画作に専念するようになり,18歳の時,パリのボンナLéon Bonnat,コルモンCormont(本名Fernand-Anne Piestre)のアトリエに入った。2人のアカデミックな教育にはあき足りなかったが,ここでゴッホと知り合う。1880年代の半ばころ,シャンソン歌手でキャバレー〈ミルリトンMirliton〉の経営者アリスティド・ブリュアンAristide Bruant(1851-1925)と知り合って,モンマルトルの夜の世界に出入りし始め,この頃から作風はそれまでの印象派風から彼本来の線描様式へと移ってゆく。作品の題材は,〈ムーラン・ルージュ〉など当時続々とオープンしつつあったキャバレー,カフェ,あるいは娼家であり,そこに生きる芸人や娼婦であった。彼が描こうとしたのは,そこにうごめく人間そのものの偽らざる姿であり,ジャヌ・アブリルJane Avril,イベット・ギルベールYvette Guilbertなど当時のスターを描いても,およそ理想化したり,モデルに迎合したりせず,その醜さ,欠点を強調し,誇張し,そのため作品には戯画的な性格が反映することもある。彼は国の内外に旅行もしたが,世紀末のパリを愛した。彼の芸術は基本的にはマネ,ドガのそれと同じく都会的な性格を有している。彼は天性のデッサン家であり,対象のすばやい動きや表情の変化をとらえる才能は,油彩画にもよく生かされている。またドーミエ以後の最大の石版画家でもあり,これらはしばしば日本の浮世絵版画の影響を見せている。大型の石版による約30点のポスターも,シェレJules Chéretやミュシャのそれとは一味違う近代的な斬新さを見せ,グラフィック・アーティストとしての才能のあかしとなっている。過度の飲酒や放縦な生活がわざわいして健康を害し,37歳の若さで世を去った。1922年彼の母親からの寄贈品を基に設立されたアルビのトゥールーズ・ロートレック美術館は,彼の約200点の油彩画,約600点のデッサン,石版画,ポスター等を所蔵する。
執筆者:千足 伸行
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…光を媒体として物体の像を感光性記録材料の上に画像として記録する方法,およびこれによって得た画像をいう。一般にはレンズを備えたカメラに感光性記録材料として写真フィルムを収め,光の下で被写体を撮影し,現像して写真画像を得る。
【人間と写真の歴史】
[写真の出現]
いわゆる〈写真術photography〉が発明される前に,カメラの原型に相当する装置はすでに存在していた。10~11世紀のアラブの学者アルハーゼン(イブン・アルハイサム)は,日食観測に用いた〈ピンホール〉利用の装置を,光学についての研究報告書のなかで明確に説明している。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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