イギリス領北アメリカの政治家。王党派(ローヤリスト)の息子としてノバ・スコシア植民地に生まれる。正規の教育をほとんど受けず,父親の印刷業を手伝いながら独学し,1828年から《ノバスコシア人》紙を刊行。同紙のコラムとして〈立法議会観察〉を設けることで,それまでの文学への関心から政治的関心,とくに当時の政治の民主化運動への関心を強めた。36年改革派の一員としてノバ・スコシア立法議会に当選し,責任政府樹立を求める運動を展開する。ノバ・スコシアには48年,他植民地に先駆けて責任政府が実現するが,これにはハウの植民地大臣J.ラッセル卿への4通の公開状が貢献している。この後のハウの関心は鉄道建設へ向かい,50年代にはハリファックスからケベックへの植民地間鉄道建設に尽力,後の大陸横断鉄道の雛形となる構想であった。60年から63年までノバ・スコシア植民地首相を務めた後,漁業長官としてアメリカ合衆国に滞在。この間にノバ・スコシアでは彼の政敵C.タッパーによりコンフェデレーションの推進がなされたが,連邦樹立によりノバ・スコシアが中央カナダの影響下に吸収されることを恐れたハウがこれに反対したため,同植民地の同意は非常に遅れ,67年の初の総選挙でもハウの率いる反対派が圧倒的多数を占めた。しかしJ.A.マクドナルドの巧みな説得とノバ・スコシア州への助成金増額により妥協が成立し,ハウも入閣した。死の直前にはノバ・スコシア州副総督に任命された。
執筆者:大原 祐子
アメリカの機械発明家。マサチューセッツ州の農家に生まれる。子どものときから機械に関心をもち,1835年綿業機械工の,また37年時計機械工の見習工となり,機械工としての腕をみがく。40年代の初めに,裁縫の機械化に関心をもち,今日のミシンの試作にとりかかる。このときハウのアイデアの基礎となったのは,子どものときから親しんでいた織機の機構である。それまでの職を辞し,44年から45年にかけて開発に専念し完成。穴のあいた針を用い,上糸と下糸をからませていく方式で,熟練した縫工の5倍のスピードで,1分間に250ステッチ進む性能をもっていた。46年に特許を取得。アメリカでのミシンへの関心の低さから,46年イギリスの製造業者に同国内での権利を譲渡し,イギリスへ渡るが契約の相手とうまくいかず,ほどなく帰国。40年代の末には,アメリカでもハウの発明を基礎にしたミシンが製造されはじめ,ハウは特許権をめぐって裁判を起こす。この裁判はアメリカの特許法史上,もっとも長いものの一つといわれ,49年から54年までつづき,ついに勝訴。なかでも有名なものはI.M.シンガーを相手とするものである。勝訴後は特許料を得,自分のミシン工場を営んだ。特許料は60年代には週4000ドルにのぼったという。
執筆者:奥山 修平
アメリカの社会改革家,医師,盲教育家。ボストン市出身。1924年ハーバード大学医学部を卒業。30年までギリシア独立戦争の犠牲者援助事業に従事。32年アメリカで最初の盲学校であるパーキンス盲学校をボストンに設立した。44年間にわたる校長生活を通じて,盲・聾など重複障害児の教育方法を開拓して世界の特殊教育の進展に貢献した。また,社会事業全般にわたるすぐれた見識から,民間慈善中心であった19世紀のアメリカ社会事業の中で公的責任の必要性を説いた。その主張に基づき,63年,アメリカで最初の公的福祉機関としてのマサチューセッツ州慈善委員会が設立され,1865-74年の間,委員長を務めた。その妻ジュリアJulia Ward Howe(1819-1910)も社会運動家で婦人問題,黒人問題を中心とする革新的な著述と社会改良運動に業績を残した。
執筆者:小島 蓉子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1729~1814
イギリス軍人。子爵家に生まれて陸軍に入り,七年戦争でカナダを転戦。1775年アメリカ独立戦争に従軍。翌年北アメリカ派遣軍総司令官となったが,サラトガの戦いで戦闘指揮が妥協的であるとの批判を受けて辞任し,本国に帰った。兄は海軍人として活躍。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…〈神々のユーカラ〉をマツ・ユーカラmat‐yukar,サコラウsakorawなどと呼ぶ地方もあるが,マツ・ユーカラは〈女のユーカラ〉の意で,道東地方では神々のユーカラは女性が伝承すべきものとされていたことからこの名が生まれた。サコラウは〈リフレーンをもつハウ(物語)〉という意味である。
[人間のユーカラ]
巫術を使いこなす半神半人のヒーロー(ヒロイン)の物語で,《イーリアス》《カレワラ》などとともに,世界の五大叙事詩の一つに数えられる。…
…しかし特許をとっていなかったため,後日他のミシン会社と訴訟問題が発生した。またアメリカのハウElias Howe(1819‐67)はハントのものによく似たミシンを発明し,46年に特許をとった。50年I.M.シンガーは今日のミシンの基本的な構造を備えたミシンを発明し,51年に特許をとり,I.M.シンガー社(シンガー社)を設立した。…
…共和党員でありながら,ローズベルト大統領の親しい友人であったザナックは,社会奉仕に大きな関心をもち,トム・ジョードが家族と別れて去って行った後に,〈民衆は死なない〉と母親(アカデミー助演女優賞のジェーン・ダーウェル)に言わせるラストを自ら撮って付け加えたという。 《怒りの葡萄》の題名は,南北戦争をうたったアメリカの女流詩人J.W.ハウの《リパブリック賛歌》(1862)の第1連に由来し,スタインベックは当初これを小説としてではなく,〈オーキーOkie〉と呼ばれたオクラホマからカリフォルニアへ移住して行く貧民たちをテーマにした一種の〈フォト・ジャーナリズム〉の1冊として企画した。アメリカ記録映画作家の第一人者であり,スタインベックの友人でもあったペア・ローレンツ(《平原を拓く鋤》1936,《河》1937,等)のドキュメンタリズムがこの小説の作風に影響を及ぼしているという指摘の根拠もそこにあり,実際スタインベックはできあがった映画を見て〈まるでドキュメンタリーを見ているようだ〉と喜んだという。…
…アメリカの社会改革家,医師,盲教育家。ボストン市出身。1924年ハーバード大学医学部を卒業。30年までギリシア独立戦争の犠牲者援助事業に従事。32年アメリカで最初の盲学校であるパーキンス盲学校をボストンに設立した。44年間にわたる校長生活を通じて,盲・聾など重複障害児の教育方法を開拓して世界の特殊教育の進展に貢献した。また,社会事業全般にわたるすぐれた見識から,民間慈善中心であった19世紀のアメリカ社会事業の中で公的責任の必要性を説いた。…
※「ハウ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
カスタマー(顧客)とハラスメント(嫌がらせ)を組み合わせた造語「カスタマーハラスメント」の略称。顧客や取引先が過剰な要求をしたり、商品やサービスに不当な言いがかりを付けたりする悪質な行為を指す。従業...
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