ハートフィールド(読み)はーとふぃーるど(英語表記)John Heartfield

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハートフィールド」の意味・わかりやすい解説

ハートフィールド
はーとふぃーるど
John Heartfield
(1891―1968)

ドイツのフォトモンタージュ作家。本名はヘルムート・ヘルツフェルデHelmut Herzfelde。第一次世界大戦終結後ベルリンに伝えられた前衛芸術運動ダダの活動のなかで頭角を現した。第一次世界大戦中の1916年、ドイツがイギリスとの戦闘状態に入ったことに対し、反国家主義の姿勢の表明として、自らのドイツ語名と同じ意味の英語名を名乗るようになった。

 両親に見捨てられるという辛い幼少期を過ごした後、兄のビーラントWieland Herzfelde(1896―1988)と行動をともにしながら前衛芸術運動にかかわるようになった。1907年ミュンヘンの王立美術工芸学校で美術教育を受け、ポスター・デザインを学ぶ。13年兄弟でベルリンに転居し、美術工芸学校に学ぶ。このころから、現地の前衛芸術家グループと交流を始める。15年には盟友となった画家ゲオルク・グロッスと運命的な出会いをする。2人は翌年にはアトリエを共有し、ともに左翼系の政治文学雑誌『新青年』Die Neue Jugendに寄稿。18年ハートフィールド兄弟とグロッスは、ベルリンに戻ったチューリヒ・ダダの中心人物の一人リヒャルト・ヒュルゼンベックRichard Hülsenbeck(1892―1974)とともに、ベルリン・ダダ創設。ハートフィールドは、同年ドイツ共産党にも入党し、左翼的傾向を強めた。

 ベルリン・ダダを特徴づけるのは、第一次世界大戦直後のドイツ国内の革命状況を反映した過激な政治的主張と、フォトモンタージュの革新的な発展を促したことにあった。とりわけハートフィールド、グロッス、ラウール・ハウスマンRaoul Hausmann(1886―1971)、ハンナ・ヘーヒHannah Höch(1889―1978)は、視覚芸術の新たな形として、既存の印刷物を素材にしてほかのメディアなどとも自由に組み合わせたフォトモンタージュを展開していった。ハートフィールドは、ベルリン・ダダが20年代初頭に退潮するなかで、活動の場を政治的プロパガンダ領域に広げ、共産党の定期刊行物や書籍のためのデザインやフォトモンタージュを精力的に制作した。なかでもグラフ雑誌『労働者画報』Arbeiter-Illustrierte Zeitung(AIZ)の表紙や誌面で27年から始めた、フォトモンタージュを駆使したナチスへの批判と糾弾のためのデザインは、その辛辣さとモンタージュのアイデアの豊かさの点で20世紀のフォトモンタージュの新たな次元を切り拓いた。例えば32年10月16日発行の『労働者画報』では、敬礼のために手を挙げたヒトラー背後に資本家が立って、その手に大金を渡しているというフォトモンタージュが「ヒトラー式敬礼の意味」というコピーとともに表紙を飾っている。その批判の矛先は、スペインのファシズム政権、日本の南京(ナンキン)占領などにも向けられている。

 1929年、シュトゥットガルトで開催された写真史上重要な展覧会「映画と写真・国際展」で、ハートフィールドは一室を与えられ、フォトモンタージュによるアジテーション展示の空間を作り出した。入り口には「写真を武器として用いよ!」という言葉が掲げられていた。フォトモンタージュという手法自身は、同時代的に、ラズロ・モホリ・ナギやアレクサンドル・ロドチェンコ、エリ・リシツキーなど構成主義から出発した作家によっても発展させられた。フォトモンタージュは商品広告やイベントの告知などにも応用され、洗練されるとともに、広告における使用を一般化していった。それに対し、ハートフィールドは、共産主義者として、自分の仕事を芸術作品やたんなるデザインとみなすことはなく、あくまでも大衆に向けられた効果的なプロパガンダ、社会的なメッセージと規定して政治的立場を貫いた点で独自の境地を切り拓いた。

 33年のナチス政権樹立後、国を追われるが、チェコからロンドンへと拠点を移しながらも反ファシズムへの視点は弱まることはなく、38年まで発行地を変えながら『労働者画報』を発行して作品を発表し続けた。その間、制作されたフォトモンタージュは237点にのぼる。第二次世界大戦終結後、1950年に当時の東ドイツに帰国し、芸術アカデミーの教授となるかたわら、舞台デザインなどの領域で仕事を続けた。

[深川雅文]

『John Heartfield, Wieland HerzfeldeLeben und Werk (1962, VEB Verlag der Kunst, Dresden. New Edition 1986, Verlag das Europäische Buch, Berlin)』『Dawn AdesPhotomontage (1976, Pantheon, New York. New Edition 1986, Thames and Hudson, London)』『Eckhard SiepmannMontage; John Heartfield vom Club Dada zur [sic] zur Arbeiter-Illustrierten Zeitung (1988, Elefant Press, Berlin)』『David EvansJohn Heartfield AIZ/VI 1930-38 (1992, Kent Fine Art, New York)』『John Heartfield 1891-1968; Photomontages (catalog, 1969, Deutsche Akademie der Künste, Berlin)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ハートフィールド」の意味・わかりやすい解説

ハートフィールド
John Heartfield
生没年:1891-1968

ドイツのモンタージュ写真家。本名はヘルツフェルトHelmut Herzfeldであるが,第1次大戦中ドイツのナショナリズムに抗して英語名に変名。大戦中弟とともに創立したマリク社の左翼出版活動が表紙絵,装丁など創作の場となる。大戦直後のドイツ革命時に共産党に入党,同時にベルリン・ダダに参加し,フォトモンタージュの新技法を駆使してワイマール体制を批判。1924年にマリク社の窓に出された軍国主義批判の《父と息子》で政治的モンタージュの技法はさらに先鋭化され,30年以来《労働者挿絵新聞》に協力して,痛烈なナチス風刺の図像を生み,民衆を啓蒙した。それは33年のプラハ亡命後も引き継がれ,ファシズムへの抵抗と記録の芸術として,35年にはパリでも展示された。38年さらにロンドンへ亡命,〈自由ドイツ文化同盟〉を通じて抵抗活動を継続した。第2次大戦後の50年東ドイツへ帰り,芸術院会員などの栄誉を得たが,ベルリンで病没。遺作は芸術院付設文書館に保管された。
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百科事典マイペディア 「ハートフィールド」の意味・わかりやすい解説

ハートフィールド

ドイツの写真家,芸術家。フォトモンタージュの創始者の一人。第1次世界大戦時のドイツ軍国主義に抵抗して,本名ヘルムート・ヘルツフェルトを英語名に変える。大戦中は弟と作ったマリク社で左翼出版を続け,表紙や装丁で活躍,戦後,ドイツ革命で共産党に入党し,ベルリン・ダダに参加してフォトモンタージュを駆使した体制批判で評価を高める。1930年以来,《労働者挿絵新聞》に拠って,政治的モンタージュによる先鋭なナチス風刺の作品を発表し続けた。1933年プラハに亡命,さらに1938年にはロンドンに亡命し,抵抗運動を展開,第2次世界大戦後1950年東ドイツに帰国,芸術院会員となる。ベルリンで死去。
→関連項目木村恒久

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハートフィールド」の意味・わかりやすい解説

ハートフィールド
Heartfield, John

[生]1891.6.19. ミュンヘン
[没]1968.4.26. ベルリン
ドイツの美術家。本名 Helmut Herzfeld。 1918年に始ったベルリン・ダダの中心的存在として活躍,写真の組合せによる作品で知られる。ナチスの台頭後は,多くのフォトモンタージュによる反ナチス作品を発表した。 33年国外に追放され,50年東ドイツへ帰国,演劇ポスターなどを制作した。 57年中国を訪問。

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