翻訳|Dada
第一次世界大戦(1914~1918)中から戦後にかけて、ヨーロッパとアメリカに展開された美術および文学上の運動。反美学的、反道徳的な態度を特色とするが、運動が行われた時と場所に応じてその性格はかならずしも一様でない。
[野村太郎]
大戦中の中心地はスイスのチューリヒで、この地に戦争を嫌って集まった若い芸術家たちは、現実への怒りを込めて否定と破壊の精神をアピールした。ルーマニア出身の詩人トリスタン・ツァラ、ドイツの作家兼演出家フーゴー・バル、同じく作家リヒャルト・ヒュルゼンベックRichard Huelsenbeck(1892―1974)、美術家アルプ、ハンス・リヒターらがそれで、彼らは1916年2月、展示場と小舞台をもつ芸術家クラブ「キャバレー・ボルテール」を開店し、ここを根城としていっさいの伝統的価値や因襲的形式や理性の優位に挑戦し、これらを愚弄(ぐろう)し否定するデモやスキャンダルを巻き起こした。その際、彼らはラルース辞典を気まぐれに開いてそこで偶然目についた単語「ダダ」を運動の名称とした。このチューリヒ・ダダは、前衛美術展を開催したり、ツァラ編集の雑誌『ダダ』を発行して、そのなかで偶然のモチーフを利用した詩の新形式を開拓したりしているが、彼らの主目的は「なにものも意味しない」ダダの否定精神をつきつめ、芸術を白紙に還元することにあったと考えられる。そのアナーキー的な身ぶりの底に、彼らは芸術を実人生と同じ地平に置こうとする欲求を秘めていたのである。
[野村太郎]
この欲求を先取りし、伝統美の急進的な否定を具体化した美術家はマルセル・デュシャンである。1913年、ニューヨークで催されたヨーロッパ現代美術展「アーモリー・ショー」で、絵画作品『階段を降りる裸体No.2』でスキャンダルをよんだ彼は、1915年ニューヨークに移住し、レディーメイド(既製品)をそのまま造形的オブジェとして展示することでセンセーションを巻き起こした。彼はダダの名称を用いなかったが、画廊「291」の中心的存在としてチューリヒとほぼ同時期にダダ的な運動を推進した。このサークルにはピカビア、マン・レイらがいる。身近な現実への関心や新しい表現方法と素材の開発は、このサークルがチューリヒの破壊のダダとはややニュアンスを異にする点である。ピカビアは1917年バルセロナで雑誌『391』を創刊したのち、チューリヒ・ダダと合流した。彼がツァラを助けて編集した『ダダⅢ』には、ダダの宣言文が掲載された。
[野村太郎]
ドイツのダダは、ヒュルゼンベックの刺激によって始められ、ベルリンのサークルにおいては、第一次世界大戦後の社会状況を反映して強い政治色に彩られている。ここでは写真モンタージュ(フォトモンタージュ)の技法が社会参与の表現として開拓されたことが特筆される。とくにドイツ軍国主義と反動的資本家層を痛烈に批判した画家グロッスの活躍は目覚ましい。彼は思想的にマルキシズムに傾き、社会変革を鼓舞する制作活動を精力的に推進した。
[野村太郎]
ハノーバーでは、詩人でもある美術家シュビッタースがただ一人で雑誌『メルツ』を発行し、ダダの気を吐いた。彼はキュビスムのパピエ・コレにヒントを得て、日常生活の廃棄物を素材にした反芸術的な作画を行ったが、たまたま平面に貼(は)った印刷物の断片にmerzの文字があるのをみつけ、それを制作の呼び名とした(メルツ絵画merz-Bild)。偶然の拾得物の寄せ集めと、それらの意外な出会いによって想像力を解放しようとするものであるが、それらの素材はやがて平面をはみ出して堆積(たいせき)されていった(メルツ構築物merz-Bau)。
[野村太郎]
ケルンでは、1919年アルプ、エルンスト、バールゲルトJohannes Baargeld(1891―1927)らが、雑誌『通風機』によってダダの運動をおこした。エルンストは、機械の図版を組み合わせたコラージュ作品で幻覚や無意識の世界をあばく糸口をみつけ、アルプは、絵画と彫刻との接点をさぐるレリーフや、無意味の意味をさぐる有機的で「匿名の」オブジェ作品を制作して将来への展望を開いた。
[野村太郎]
アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーら、雑誌『文学』(1919創刊)による詩人たちを中心とするパリのダダは、ツァラ、エルンスト、ピカビアらを迎えて強力な運動体となった。ブルトンとスーポーは、半月間自らを一種の白紙の状態(いっさいの先入観をもたない)においてオートマチックにことばを記述(自動記述)した詩集『磁場』(1920)をつくったが、この試みはすでに破壊と否定のダダを乗り越えて無意識の領域に未知の現実を探ろうとする創造的な実験であった。パリ・ダダは、フロイトに共鳴して内的世界へ目を向けたブルトンが、政治変革を志向するアラゴン、エリュアールと決別したときに終わり、やがてシュルレアリスムの運動に発展していく。
[野村太郎]
第二次世界大戦後、抽象表現主義に対抗して1960年前後におこったアメリカおよびヨーロッパの美術の動向には、ダダを回想させるものが多い。アメリカにおけるネオ・ダダ、ジャンク・アートJunk Art(廃物芸術)、ポップ・アート、ヨーロッパにおけるヌーボー・レアリスムがそれである。これらの諸傾向は、ダダが着目した素材(反芸術的な日用品、工業製品とその廃棄物、写真およびマス・メディアが提供するイメージ)や技法(コラージュ、アッサンブラージュ、写真モンタージュ)を継承し発展させた表現も少なくない。新しい技術時代と大衆社会の現実に即応したこれら1960年代の諸傾向は、ダダが口火を切った「反芸術」を、「表現」「抽象」「幻想」と並ぶ20世紀美術の基礎概念の一つとして定着させた。なお、日本でも1960年4月、荒川修作、篠原有司男(しのはらうしお)(1932― )、吉村益信(ますのぶ)(1932―2011)らによってネオ・ダダ・オルガナイザーズが結成された。
[野村太郎]
『M・サヌイエ解説、瀧口修造訳『現代の絵画16 ダダ運動と画家たち』(1973・平凡社)』▽『K・タウツ・スミス著、柳生不二雄訳『ダダ』(1976・パルコ出版)』▽『H・リヒター著、針生一郎訳『ダダ――芸術と反芸術』(1987・美術出版社)』▽『白川昌生編『日本のダダ』(1988・書肆風の薔薇)』▽『平井正雄著『表現主義・ダダを読む』(1996・白水社)』▽『浜田明・田淵晋也・川上勉著『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』(1998・世界思想社)』▽『M・ゲール著、巌谷国士・塚原史訳『ダダとシュルレアリスム』(2000・岩波書店)』▽『D・エイズ著、岩本憲児訳『フォトモンタージュ 操作と創造――ダダ、構成主義、シュルレアリスムの図像』(2000・フィルムアート社)』▽『塚原史著『言葉のアヴァンギャルド――ダダと未来派の20世紀』(講談社現代新書)』
第1次大戦中から戦後にかけてヨーロッパとアメリカを中心に起こった芸術運動。ダダイズムDadaismともいう。
第1次大戦中,中立国スイスのチューリヒは亡命者のたまり場であった。1916年2月,逃亡兵の演出家バルと恋人の歌手エミー・ヘニングスは同地で,アルザス生れの画家アルプ,ルーマニアの詩人ツァラや画家ヤンコMarcel Janco(1895-1984)とともに〈キャバレー・ボルテールCabaret Voltaire〉を開催した。ベルリンの医者・詩人ヒュルゼンベックも加わり,小舞台と15~16卓だけのこの店で毎夜宣言,歌,騒音音楽,音声詩,同時詩,仮面舞踏などが演じられた。〈強盗どもが一斉蜂起した権力の錯乱状態のなかで,芸術も人間の衆愚化に一役買う徴候〉に対し,〈時代の狂気から人間を救い出す本源的な芸術〉(アルプ)を求めた乱痴気さわぎの中で,ダダは生まれた。ダダの名称は同年6月,機関誌《キャバレー・ボルテール》ではじめて使われ(ダダとはフランス語辞典から偶然拾われた語で,〈お馬〉の意の幼児語),7月には〈第1回ダダの夕べ〉が開かれたが,同キャバレーは家主の追いたてで閉店し,17年バルとエミーはスイス南部のティチノ州に旅立つ。その後はツァラが中心となり,画家リヒターや詩人W.ゼルナーも加わる。〈ダダは嫌悪の生みだす一切だ。破壊行為における全存在の徒手空拳の抗議,ダダ。創造の不能者たちの舞踏である論理の廃棄,ダダ。自発性から生まれるあらゆる神々への絶対で,議論の余地なき信頼,ダダ〉(《ダダ宣言1918》)とあるように,ツァラたちは嫌悪と自発性だけを原理に,あらゆる物質と行為から芸術を再生させようとした。
一方,同じころニューヨークでは,1913年の〈アーモリー・ショー〉に,《階段をおりる裸体》を出品して反響を呼び,17年レディ・メイドの便器(《泉》と題される)を出品して物議をかもしたM.デュシャン,〈無用な機械〉シリーズで知られるマン・レイ,13年写真家スティーグリッツの画廊〈291〉で個展を開き,18年秋チューリヒに赴きツァラと意気投合する反芸術の闘士ピカビア,騒音音楽のバレーズらがダダ的サークルを形づくっていた。
17年1月ベルリンに戻ったヒュルゼンベックは,フォトモンタージュの名人ハウスマンとその恋人ハンナ・ヘーヒHannah Höch(1889-1978),戦争中排外主義を嫌って英語風に改名した,政治的フォトモンタージュ作家ジョン・ハートフィールドと弟の編集者ウィーラント・ヘルツフェルデ,軍人とブルジョアを風刺する画家グロッス,ざれ歌詩人メーリングらとともに,18年4月〈ベルリン・ダダ〉を結成した。やがて彼らは,敗戦革命のなかで,反芸術と政治的宣伝を直結させる。また〈ダダ世界革命〉を確信する偏執狂J.バーダーは,ベルリン教会の説教壇で演説し,ワイマール国会で手製の新聞号外を配布した。
19年ケルンに移ったアルプは,友人のエルンスト,ラインラント共産党を創立した画家・詩人バールゲルトらと,集会,コラージュ,フロッタージュ,オブジェ,自動詩による無意識の探求に集中した。ハノーファーのシュウィッタースは単独で,〈メルツ〉とみずから名づけた,がらくたで構成したアッサンブラージュ,オブジェ,音響詩,タポグラフィーの実験をつづけた。パリでは〈黒いユーモア〉の体現者バシェや奇行好きの拳闘家A.クラバンらに刺激され,19年3月反文学的雑誌《文学》を創刊したブルトン,アラゴン,エリュアール,スーポーらが,チューリヒから来たツァラやピカビアを加えてさまざまのダダ的集会や実験を展開した。しかし,ブルトンらはやがて後者と対立し,想像力の体系的探求をめざすシュルレアリスムにむかった。
ダダの運動はそのほかイタリア,ロシア,スペイン,オランダ,ハンガリーにも波及した。日本でも1923年,高橋新吉の《ダダイスト新吉の詩》の刊行やダダに接近したアナーキストの詩誌《赤と黒》の創刊がみられ,その後,ドイツ帰りの村山知義を中心に,〈街頭へ,広場へ,絶望へ,虚無へ,アトムの転換へ!〉を合言葉とした《マボMavo》の創刊(1924),〈未来派〉〈アクション〉〈マボ〉グループの公募展〈三科会〉への合流,村山知義の詩,美術,演劇,舞踏を合成した〈劇場の三科〉などが続いたが,その熱気もアナーキズムが共産主義に再編される過程で数年で消えた。
リヒターによれば,〈ダダには綱領がないだけでなく,徹頭徹尾反綱領的であった。それがこの運動に,あらゆる面にむかって美学的,社会的制約なしに,自由に展開する爆発力を与えたのである〉。ダダの手法は個別的にみれば,自発性と行為の契機,同時性と偶然の問題,コラージュとオブジェ,抽象と記号,反芸術と総合芸術など,いずれも第1次大戦前の表現主義,キュビスム,未来派のうちに萌芽がみられる。しかしダダとは,自己が人間の限界をはみだし,人格の統一と意味を失ってほとんど物体と同化する地点で,それらの手法をとらえ直し,全体的観念に統合しようとするものであった。それはいわば,巨大な虚無,混沌,ゼロであり,ダダには〈近代〉と〈芸術〉への根本的な懐疑と批判が底流として存在していた。
→シュルレアリスム
執筆者:針生 一郎
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(山盛英司 朝日新聞記者 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
… その源流はランボー,ロートレアモン,ネルバルら,社会から疎外される不幸を現実から自由な想像力の起点に転じた,19世紀の〈呪われた詩人たち〉で,ベル・エポックに文明の終末と人類の黙示録的解放をうたったアポリネールや,精神生活の二等辺三角形のうち,孤独な頂点にいる芸術家は〈精神の内的必然性〉に従えば,底辺にいる大衆の未来の生活感情を先取りできると説いたカンディンスキーの著書《芸術における精神的なもの》(1912)をはじめ,20世紀初頭のフォービスム,キュビスム,表現主義,未来主義,シュプレマティズム,構成主義などの芸術運動には,この概念がすでに潜在していたといえる。だが,第1次大戦中におこったダダは,嫌悪と自発性を原理として,芸術のタブラ・ラサ(白紙状態)への還元を求め,あらゆる物体や行為も芸術作品たりうることを立証した点で,カンディンスキーの精神の三角形を逆立ちさせた観がある。事実,前衛芸術の概念が普及したのは,ブルジョア社会の破局があらわになった第1次大戦以後で,抽象芸術とシュルレアリスムがその二大潮流を形づくったほか,プルースト,ジョイス,A.V.ウルフ,A.ハクスリー,カフカ,ピランデロ,ドス・パソスらの文学も,先鋭な方法的実験によって注目された。…
…英語のオブジェクトobjectにあたるフランス語で,物体ないし客体の意。美術では,題材つまり描写対象と素材・材料の両面の意味をもつが,ダダ以後,後者の面で既製品を含む異質な素材を導入した立体作品をさす,特殊な用語となった。その先駆は,未来派の彫刻家ボッチョーニが,1911年,多様な素材を合成して〈生の強度〉に迫るべく,毛髪,石膏,ガラス,窓枠を組み合わせた作品をつくり,ピカソがキュビスムの〈パピエ・コレ(貼紙)〉の延長として,12年以後,椅子,コップ,ぼろきれ,針金を使った立体作品を試みたあたりにある。…
…モイネシュティに生まれる。少年期よりフランス象徴派の影響下に詩作をはじめ,第1次世界大戦勃発後,両親とともに移住したスイスのチューリヒで,1916年バル,ヒュルゼンベックらとダダ運動を創始した。以来,徹底した否定の精神を体現しつつ,この運動の中心的存在となり,国際的にその名を知られた。…
…〈パフォーミング・アーツ〉(舞台芸術,上演芸術)から区別された意味での〈パフォーマンス・アート〉は,1950~60年代の〈ハプニング〉や〈イベント〉の延長線上にあり,今日ではこれらを含めて〈パフォーマンス〉ないしは〈パフォーマンス・アート〉と呼ぶことが多い。ハプニングやイベントは,既成の様式やジャンルを解体する〈反芸術〉であり,1910年代のイタリアの未来派やダダの影響を受けている。そこでは,まず,演劇,音楽,美術といった固定したジャンルが成立せず,〈芸術〉と〈非芸術〉(日常)との間に引かれていた一線も撤去される。…
…一般には,フォトモンタージュphotomontageの呼称が用いられる。〈フォトモンタージュ〉ということばは,第1次大戦直後にベルリンのダダイストによってつくりだされたものである。しかし,写真的イメージの合成術は19世紀にすでにあり,またキュビスト(ブラックなど)やM.エルンストのコラージュ,マン・レイらのフォトグラムなどフォトモンタージュに類した技法も見られ,さらにフォトモンタージュそのものの手法も多様で,フォトモンタージュの概念はいまだにあいまいである。…
…ベックマンの超越論的即物性を経て,ホーファーCarl Hofer(1878‐1955)はすでに実存性にまで到達した。 他方,表現主義以上に否定性を徹底させ,もはや〈芸術〉の革命ではなく,市民社会の崩壊意識そのものを一つの運動体として破壊的に体現したのが,〈すべてに対するアンチ〉を旗印とするダダイズム(ダダ)であった。〈プロパガンダ〉として絵画を市民社会の実相の暴露に変えたG.グロスや,コラージュの手法を闘争の武器に変えたハートフィールドは,アバンギャルドがワイマール共和国の混沌の中で体現した一つの極点を示している。…
※「ダダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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