バスコダガマ(その他表記)Vasco da Gama

翻訳|Vasco da Gama

精選版 日本国語大辞典 「バスコダガマ」の意味・読み・例文・類語

バスコ‐ダ‐ガマ

  1. ( Vasco da Gama ) ポルトガルの航海者。アフリカ南端の喜望峰を回り一四九八年カリカットに到達し、インド航路を開いた。一五〇二~〇三年、第二回航海の結果ポルトガルのインド貿易独占の基礎を固めた。二四年インド総督。一五二四年没。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バスコダガマ」の意味・わかりやすい解説

バスコ・ダ・ガマ
Vasco da Gama

[生]1460頃.アレンテージョ,シニシュ
[没]1524.12.24. コーチン
ポルトガルの航海者。喜望峰を回ってインドに達する航路の開拓者として知られる。 1497年7月マヌエル1世 (幸運王)の命で,インド航路開拓のため,みずから指揮する『サン・ガブリエル』号をはじめ,『サン・ラファエル』『ベリオ』および補給船の4隻をもってリスボンを出航,カナリア諸島ベルデ岬諸島を経て南大西洋を航海,喜望峰を回って 98年3月モザンビークに到着,そこでアラブ商人の交易を見聞し,2人の水先案内人を得て,同年4月にマリンディに着いた。その地でインドのカリカットにいたるコースを知っている土地の水先案内人を得て,23日間にわたるインド洋の航海ののち,5月にカリカットに到着。8月末に帰途についたが,暴風のため多くの乗組員を失い,99年9月にリスボンに帰港。この結果,ポルトガル人は海路で直接,香辛料の原産地に到達するというヨーロッパ人の長年の夢を実現し,首都リスボンに未曾有の繁栄がもたらされることになった。しかし,ヨーロッパ人のアジア進出を恐れるイスラム商人反撃にあい,ガマは 1502年再度インドに派遣され,カリカット,コーチンに報復攻撃を行い,03年帰国した。さらに 24年ジョアン3世 (敬虔王) の命を受けてインド副王として赴任したが,病を得て没した。

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改訂新版 世界大百科事典 「バスコダガマ」の意味・わかりやすい解説

バスコ・ダ・ガマ

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百科事典マイペディア 「バスコダガマ」の意味・わかりやすい解説

バスコ・ダ・ガマ

ガマ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バスコダガマ」の意味・わかりやすい解説

バスコ・ダ・ガマ
ばすこだがま

ガマ

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世界大百科事典(旧版)内のバスコダガマの言及

【ガマ】より

…ポルトガルの航海者。下級貴族の子としてポルトガル南部のシネスで生まれた。前半生のことはほとんどわからない。1497年インドに向かうポルトガル船隊の司令官となり,喜望峰を経由して翌年カリカットに到達した。1502年にもふたたび司令官となってインドに赴いた。その後24年になって歴代総督の失政を改革するためにインドに派遣されたが,その直後に病死した。したがって彼はもっぱらインド航路の開拓者として記憶されている。…

※「バスコダガマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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