ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マヌエル1世」の意味・わかりやすい解説
マヌエル1世(幸運王)
マヌエルいっせい[こううんおう]
Manuel I, o Venturoso
[没]1521.12.13. リスボン
ポルトガル王 (在位 1495~1521) 。ポルトガル史上の黄金時代を築いたジョアン2世 (完全王)の従弟で,その跡を継いで王位についた。イベリア半島全土をアビス朝の支配下におこうとする野望のもとに,スペインのフェルナンド2世 (カトリック王) とイサベル1世の娘マリアと結婚したが,まもなく死別。その後スペイン王カルロス1世 (神聖ローマ皇帝カルル5世 ) の妹エレオノラと結婚。彼の治世はポルトガルの全盛期にあたり,バスコ・ダ・ガマのインド航路開拓 (1497~99) ,P.カブラルのブラジル到達 (1500) と相次ぎ,さらにポルトガル領インド初代総督 F.アルメイダによるインド航路の独占強化 (09) ,次の総督 A.アルブケルケのゴア占領 (10) ,スマトラ,ジャワの発見 (11) ,さらに中国への商業圏拡大 (14) と続いた。彼の東方経営は香料貿易に重点をおき,その独占をはかった。国内にあっては文化の発展に努め,ポルトガルのルネサンスの一時期を形成したが,一方ユダヤ人の追放を行なった (1496) 。
マヌエル1世
マヌエルいっせい
Manuel I Comnenus
[没]1180.9.24.
ビザンチン皇帝 (在位 1143~80) 。ヨハネス2世の息子。天才的外交手腕に恵まれ,西ヨーロッパ型の君主で,ビザンチン宮廷に西欧文化を取入れた。急速に勢力を増大してきたシチリア王ロジェール2世に対抗するため,ドイツ王コンラート3世と同盟を結んだが,コンラート3世の十字軍遠征とその失敗により,1147年ロジェール2世に絹産業の中心テーベ,コリントを侵略され,商業活動の衰退を招いた。さらにジェノバ,ピサ,ベネチアに与えた貿易特権はこれに追打ちをかけた。しかし東方においては,アンチオキア公国に対する宗主権を確立し,西方においてはハンガリーの王位継承権問題を巧みにあやつって,ボスニア,ダルマチア,クロアチアの併合に成功した。これらの一連の動きは,セルジューク・トルコを牽制したものの,77年ミリオケファロンの戦いに敗れ,小アジアでの帝国の影響力を著しく減少させた。
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