イタリアの作曲家。ノーノ、ブソッティとともに、第二次世界大戦後のイタリア前衛音楽を代表する。1955年、イタリア国営放送ミラノ局に設立された音声学スタジオのディレクターとなって以来、電子音楽やコンピュータ音楽への関心が高まる。同じ世代、ことに同じようにダルムシュタット夏期音楽講座で活躍し、比較されることの多いブーレーズ、シュトックハウゼンに比べると、調性を忌避しないところに特徴がみられ、『シンフォニア』Sinfonia(1968)のようにドビュッシーやマーラーの古典交響曲をコラージュしたような作品もある。代表作に女声と電子音のための『テーマ・ジョイス頌(しょう)』(1958)、室内楽曲シリーズ『セクエンツァ』第1番~第14番(1958~2002)、声楽曲『サークルズ』(1960)、劇作品『ラボリントゥスⅡ』(1965)、オペラ『真実の物語』(1982)、管弦楽曲『フォルマツィオーニ』(1987)、オペラ『場所のニュース』(1999)などがある。指揮や演出も手がける。
[細川周平]
『武満徹著『歌の翼、言葉の杖――武満徹対談集』(1993・ティビーエス・ブリタニカ)』▽『デヴィッド・オズモンド・スミス著、松平頼暁訳『ベリオ――現代音楽の航海者』(1998・青土社)』▽『山下史路著『イタリアの今を創るマニーフィコ(すごい人)たち』(2001・JTB)』▽『Luciano Berio, Two Interviews(1989, Marion Boyars)』
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イタリアの作曲家。1950年ミラノ音楽院卒業後渡米,タングルウッド(マサチューセッツ州)のバークシャー音楽センターでL.ダラピッコラに十二音技法を学ぶ。帰国後K.シュトックハウゼンやB.マデルナと知り合い,ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加。またミラノのイタリア放送協会に電子音楽スタジオを設立するために尽力,55年設立後61年まで所長を務めた。63年再度渡米,65-71年ジュリアード音楽学校で教え,かたわら現代音楽のためのジュリアード・アンサンブルを組織した。また77年に設立されたパリの音響・音楽の探求と調整の研究所(IRCAM)の電気音響部門の責任者を80年まで務め,以後そのミラノ支部長。76年よりアカデミア・フィラルモニカ・ロマーナの芸術監督。
イタリアを代表する前衛的作曲家で,言語音や声そのものを素材とする〈言語作曲text composition〉の分野を切り開き,50年代末から60年代前半の作曲界に大きな影響を与えた。言語音を電子音楽的に処理した《テーマ : ジョイス礼賛》(1958),笑いから叫びまで声のあらゆる表情をとらえた電子音楽《ビザージュ》(1961),女声独唱のための《セクエンツァ第3番》(1965)などが,その代表作であるが,これらは彼の柔軟なイタリア的感性と夫人であった歌手バーベリアンCathy Berberian(1928-83)の発声の融合といえよう。さらに偶然性を用いた女声と室内楽のための《サークルズ》(1961),シアター・ピース《ラボリントゥス第2番》(1965),コラージュ技法による《シンフォニア》(1969),名人芸を追求した独奏(唱)のための《セクエンツァ》シリーズ(1958-),改作を創造の手段とする開かれた作品,室内楽のための《シュマン》シリーズ(1965-)などの実験的な作品を書き続け,晩年には《オペラ》(1970,77改訂),オペラ《耳をすましている王様》(1984)など舞台作品に意欲をみせた。
執筆者:小場瀬 純子
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[現代]
第2次世界大戦後,今日においてもイタリアは,世界の諸国の中でももっとも音楽的な国のひとつとして知られている。L.ベリオをはじめとするシリアス音楽の作曲家たちは,もっとも前衛的な創作活動の一翼を担い続けてきた。イタリアの楽界はまた,スカラ座をはじめとする諸劇場におけるオペラの上演や,イタリア放送協会のオーケストラなどの演奏に,高い水準を示しており,ピアノのM.ポリーニらをはじめとして,名演奏家にも事欠かない。…
※「ベリオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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