マリンディ(その他表記)Malindi

デジタル大辞泉 「マリンディ」の意味・読み・例文・類語

マリンディ(Malindi)

ケニア南部、インド洋に面する港町。15世紀に明朝鄭和ていわポルトガルバスコ=ダ=ガマが訪れた。かつてはアラブ人インド洋交易の拠点として栄えたが、ポルトガル人がモンバサに拠点を置いてから衰退した。ガマによるインド航路発見を記念した石塔イエズス会の教会跡などがある。近年は海岸保養地として知られる。

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改訂新版 世界大百科事典 「マリンディ」の意味・わかりやすい解説

マリンディ
Malindi

東アフリカ,ケニア沿岸部のほぼ中央部に位置する古い港町。人口約6000。町は海岸に沿って細長く連なる。後背地が広く,古くから豊かな作物で知られている。人口の38%がアラブないしアラブの出自を唱える混血民,7.5%がインド人,残りがギリヤマ,バジュン,キクユらのアフリカ系住民である。町についての最も古い記載は,9世紀の中国人の記録であるが,12世紀のアラブの旅行家イドリーシーはより具体的にマリンディの名をあげている。マリンディはモンバサ,キルク,パテラムなどと並んで,インド洋交易の東アフリカ沿岸都市として発達してきた。1414年にはマリンディから明の皇帝キリンを献上したという絵が中国に残されているほど,交易範囲は広かった。15世紀末,ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えて東アフリカに到達したころ,マリンディはモンバサとの激しい競争関係にあり,すすんでポルトガルを歓迎し,東インドへの道案内を務めたという。100年余りポルトガルとの友好関係が続いたが,まもなくポルトガルの支配の中心はモンバサに移り,また北からのガラ牧畜民の度重なる攻撃を受けて,マリンディは勢力を失った。19世紀中期にはザンジバルスルタン支配下で,食糧生産の基地として多く奴隷を使ったプランテーションがつくられたという。イギリスの植民地化以後,ラムと並んでモンバサに次ぐ港として機能するとともに,古いモニュメントをもつ風光明美な観光地となっている。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マリンディ」の解説

マリンディ
Malindi

東アフリカ,ケニアの港市。古くからインド洋交易の拠点として発展,スワヒリ文化を育んだ。15世紀には明の鄭和(ていわ)の艦隊が訪れ,ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊も同港から水先案内人イブン・マージドによってインドに導かれたとされる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マリンディ」の解説

マリンディ
Malindi

ケニア沿岸中部にある海港都市
モンバサ,キルワなどと並んで13世紀以降インド洋交易の中心都市として繁栄。鄭和の南海遠征隊が1414年に来航。1498年にはヴァスコ=ダ=ガマが寄港して,有能な水先案内人イブン=マージドを得て,インド航路を開拓した。ポルトガルの貿易拠点になったが,拠点がモンバサに移ると,16世紀末から衰退した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マリンディ」の意味・わかりやすい解説

マリンディ
Malindi

ケニア南東部,インド洋にのぞむ港町。モンバサ北東約 100km,ガラナ川河口に位置。綿工業,サイザルアサ加工の中心地で,サトウキビ,コプラの集散地。漁業も盛ん。 1497年バスコ・ダ・ガマが訪れたことで知られる。人口約2万 3000。

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