バリシニコフ(英語表記)Baryshnikov, Mikhail

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バリシニコフ」の意味・わかりやすい解説

バリシニコフ
Baryshnikov, Mikhail

[生]1948.1.28. リガ
ソビエト連邦生まれのアメリカ合衆国の舞踊家。フルネーム Mikhail Nikolayevich Baryshnikov。リガ・オペラ・バレエ学校を経てレニングラードの A.ワガノワ・バレエ学校に入学,ルドルフ・H.ヌレエフ,ナタリア・R.マカロワらのトップ・スターを育てたアレクサンドル・プーシキン師事。在学中の 1966年バルナ国際バレエ・コンクールで第1位に入賞し,レニングラード・バレエ団(→マリインスキー劇場バレエ団)に入団。身長には恵まれなかったが,正統ロシア・バレエのテクニックをもつダンサーとして人気を得た。1974年同バレエ団のカナダ公演中に亡命アメリカン・バレエ・シアターなどで踊り「ミーシャ」の愛称で親しまれ,現代作品にもレパートリーを広げて,ミーシャ・グッズが売られるほどのブームを起こした。振付家としても活躍,1980年アメリカン・バレエ・シアター芸術監督に就任。ミュージカルや映画『愛と喝采の日々』(1977),『ホワイトナイツ/白夜』(1985),『ダンサー』(1987)などにも出演,好評を得た。1990年同団の創立 50周年を機に退団,ホワイト・オーク・ダンス・プロジェクト主宰した。その後フリーとなり,2005年バリシニコフ・アーツセンターを設立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バリシニコフ」の意味・わかりやすい解説

バリシニコフ
ばりしにこふ
Михаил Николаевич Баришников/Mihail Nikolaevich Barishnikov
(1948― )

旧ソ連出身のアメリカの舞踊家、振付師。現ラトビアのリガに生まれる。レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)・バレエ学校でプーシキンに学び、セルゲーエフ振付けの『ハムレット』などの主役を演じ、バルナ国際バレエ・コンクールで第1位となる。レニングラード(キーロフ)・バレエ団に入団、将来を嘱望されていたが、1974年カナダ公演中に亡命。アメリカン・バレエ・シアターに入団、一時ニューヨーク・シティ・バレエ団にも在籍したが、80年から90年までアメリカン・バレエ・シアターの芸術監督を務める。その後、ホワイト・オーク・プロジェクト・カンパニーを主宰、モダン・ダンス作品も振付けている。振付作品に『くるみ割り人形』(1977)、『ドン・キホーテ』(1978)など。映画『愛と喝采(かっさい)の日々』(1977)、『ホワイトナイツ/白夜』(1985)、『ダンサー』(1987)に出演した。

[國吉和子]

『ゲナディ・スマコフ著、阿部容子訳『バリシニコフ 故国を離れて』(1986・新書館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「バリシニコフ」の意味・わかりやすい解説

バリシニコフ
Mikhail Nikolaevich Baryshnikov
生没年:1948-

ソ連邦出身の舞踊家。リガ生れ。レニングラード舞踊学校で学び,1966年ブルガリアのバルナでのコンクールで金賞を受賞。翌67年キーロフ・バレエ団(レニングラード・バレエ団)に入団したが,74年夏,同バレエ団のカナダ公演中に亡命。アメリカン・バレエ・シアターに4年間加わりスターとなったが,のちニューヨーク・シティ・バレエ団に移り,80年秋からバレエ・シアターの芸術監督に返り咲いた。映画《愛と喝采の日々》(1977)にも主演した。
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