バンクロフト
George Bancroft
生没年:1800-91
アメリカの歴史家,政治家。ハーバード大学卒業後,ドイツのゲッティンゲン大学,ベルリン大学に学び,1822年帰国して一時教育事業に熱中したが,31年から歴史研究に入り,大著《合衆国史》10巻(1834-74)の執筆に着手した。この間ジャクソン大統領の政策を熱烈に支持する論文を発表,政治活動にも入り,政界でも名をあげた。44年,ポークの大統領候補指名に寄与し,彼が大統領となるや海軍長官(1845-46)に任命され,アナポリスに海軍兵学校を設立,メキシコ戦争(米墨戦争)にも積極的役割を果たした。46-49年駐英公使,67-74年プロイセン公使,南北戦争中はリンカンを強く支持した。この間も執筆を続けた《合衆国史》は,独立にいたるアメリカ史を専制に対する自由の勝利の過程として描き,民主主義への熱情と愛国主義に満ちた19世紀アメリカの代表的歴史書として人気を得たが,のちの歴史家からはその非科学性を批判された。〈アメリカ歴史学の父〉と呼ばれる。
執筆者:志邨 晃佑
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
バンクロフト
没年:大正14.7.28(1925)
生年:1857.11.20
アメリカの法律家,大正期の駐日大使。イリノイ州ゲイルズバーグ生まれ。1880年コロンビア大学法学士,1912年ノックス大学法学博士。1884年弁護士の資格を取り,1892年シカゴで開業,イリノイ州法律顧問などを務める。1919年シカゴの人種暴動に直面し黒人問題調査委員長として報告書をまとめ上げ,人種問題の権威とみなされる。大正13(1924)年8月駐日特命全権大使に任じられ,11月19日着任。排日移民法実施(1924)後の日米関係改善への期待をかけられていたが,翌年軽井沢で病没。時の第1次加藤高明内閣は外務大臣幣原喜重郎の発意で,先のアメリカ大使ガスリ客死(1917)の事例を踏まえつつ,「殊ニ最近米国ニ於ケル対日感情ニ鑑ミ」遺体を軽井沢から特別列車で運び,8月6日東京での葬儀に最高の礼を尽くしたうえ,巡洋艦多摩で横浜からサンフランシスコまで護送した。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
バンクロフト
Bancroft, George
[生]1800.10.3. マサチューセッツ,ウースター
[没]1891.1.17. ワシントンD.C.
アメリカの歴史家,政治家,外交官。ハーバード大学に学び,その奨学金でゲッティンゲン,ハイデルベルク,ベルリンの諸大学に学んだ。新大陸発見からアメリカ独立革命までを描いた『アメリカ合衆国史』 History of the United States (10巻,1834~74) を執筆。「アメリカ史の父」と呼ばれる。政治家としては,初め民主党に属し,J.ポーク大統領のもとで海軍長官 (45~46) ,その後イギリス公使 (46~49) をつとめたが,奴隷制問題で共和党支持に転じ,南北戦争のときは連邦と A.リンカーンを支持した。戦後ロシア公使 (67~71) ,ドイツ公使 (71~74) を歴任。 1876年には6巻に縮小した『アメリカ合衆国史』改訂版を出版。
バンクロフト
Bancroft, Richard
[生]1544.9. ランカシャー
[没]1610.11.2. ロンドン
イギリスの聖職者。 1587年高等宗務官裁判所員に就任,清教徒 T.カートライトらに対するきびしい判決が特に知られる。次いで 89年ポールズクロスで行なった反清教の説教で一躍有名になった。 97年ロンドン主教となり,1604年ハンプトンコートで開かれた宗教会議で主導的役割を演じた。同年 J.ホイットギフトの後任としてカンタベリー大主教になり,清教徒牧師約 300名を職から追放した。 07年 E.クックと争う。 08年オックスフォード大学学長となった。
バンクロフト
Bancroft, Sir Squire
[生]1841.5.14. ロンドン
[没]1926.4.19. ロンドン
イギリスの俳優,劇場支配人。 1865年ロンドンでデビュー。 67年劇場支配人のマリー・エフィー・ウィルトンと結婚,夫妻でプリンス・オブ・ウェールズ劇場 (1867~80) ,ヘイマーケット劇場 (80~85) を経営し,多くの劇を上演した。妻との共著に『バンクロフト夫妻・舞台の内と外』 Mr. and Mrs. Bancroft,on and off the Stage (88) ,『60年の思い出』 Recollection of Sixty Years (1909) がある。 97年ナイトの称号を受けた。
バンクロフト
Bancroft, Hubert Howe
[生]1832.5.5. オハイオ,グランビル
[没]1918.3.2. カリフォルニア,ウォルナットクリーク
アメリカの歴史家。 1852年オハイオからカリフォルニアへ移住。サンフランシスコで書籍販売に従事。パナマからアラスカまでの太平洋海岸地域の歴史資料を収集。西部の歴史に関する多くの書物を著わした。主著『北米太平洋岸諸州の原住民』 Native Races of the Pacific States of North America (5巻,1875~76) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
バンクロフト
ばんくろふと
George Bancroft
(1800―1891)
アメリカの歴史家、外交官。1817年ハーバード大学を卒業後、ドイツのゲッティンゲン大学で博士号を取得。ライフワーク『合衆国史』(10巻、1834~74。1876、1883~85改訂)を著したほか、外交官としても活躍。45年海軍長官としてアナポリス海軍兵学校を創設後、46~49年駐英公使、67~74年駐独公使を務めた。また演説と筆をもってリンカーン大統領を支援。その民主政治への熱烈な信奉、愛国心あふれる筆致のゆえに「アメリカ史の父」と評される。
[池本幸三]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
バンクロフト Bancroft, Edgar Addison
1857-1925 アメリカの外交官。
1857年11月20日生まれ。弁護士をへて,大正13年駐日大使として来日したが,14年7月28日軽井沢で病死。67歳。遺体は日本海軍の軍艦でサンフランシスコにはこばれた。イリノイ州出身。コロンビア大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
百科事典マイペディア
「バンクロフト」の意味・わかりやすい解説
バンクロフト
米国の歴史家,政治家。ハーバード大学,ドイツのゲッティンゲン大学に学び,海軍長官,駐英・駐プロイセン公使を歴任,アナポリス海軍士官学校を創設。米国にドイツ学派の歴史学を導入。主著《米国史》(1834年―1874年)は米国歴史学の起点となるもので,ランケの賞賛を受けた。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
バンクロフト
George Bancroft
1800~91
アメリカの歴史家,外交官。主著『合衆国史』10巻(1834~74年)を著し,「アメリカ歴史学の父」と呼ばれる。また海軍長官在職中(1845~46年)にアナポリス海軍兵学校を創設し,その後駐英大使,駐独大使などを歴任。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のバンクロフトの言及
【アナポリス】より
…1783‐84年,連合会議が数回開かれ,86年のアナポリス会議はアメリカ合衆国憲法制定への道を築いた。1845年バンクロフトGeorge Bancroftにより海軍兵学校U.S.Naval Academyが設立された。今日,アナポリスは海軍兵学校の代名詞として用いられる。…
※「バンクロフト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」