アメリカのゴスペル、ソウル・ミュージック・シンガー。アメリカの黒人音楽史において、欠かすことのできない重要なボーカリストである。ミシシッピ州北東のクラークスデールの牧師の家に生まれ、幼いころからゴスペル合唱団の一員として歌いはじめる。クックの名が知られるようになったのは、ゴスペル・カルテットの名門グループ、ハイウェイQCズに加わり全米の黒人教会などで公演するようになってからである。その後QCズを脱退し、1950年にソウル・スターラーズに加わったことにより、クックの人気は黒人コミュニティで絶大なものになっていった。
アメリカにおける黒人音楽は、ブルースやジャズなどの世俗的な音楽と、キリストの教えにもとづいた宗教音楽(ゴスペル・ミュージック)とに大きく二分される。一般のヒット・チャートにあまり登場しないゴスペルだが、全米各地で強固な人気を獲得してきた。ゴスペルの第二次世界大戦後における際立った特徴は、ゴスペル・カルテットというコーラス・グループを成熟させたことだった。このカルテットによるドラマチックなハーモニーは、50年代のドゥーワップ・グループやソウル・ミュージックのコーラス・グループだけでなく、日本の黒人音楽系コーラス・グループに至るまで無数の追従者を生むことになった。クックはその頂点に立つシンガーの一人である。
ハイウェイQCズやスターラーズのリード・ボーカリストとして壇上に上ったクックは、その甘いマスクだけでなく、上品でメロディアスなボーカルを聴かせたかと思えば、一転、激烈なシャウトで声を荒げるといった絶妙の歌唱力で聴衆を圧倒した。そして、クックのこのような歌い方は、第二次世界大戦後の黒人音楽における新しいボーカル・スタイルの雛型となり、その後のソウル・ミュージックに大きな影響を与えるのである。ゴスペル時代の代表曲としては「ニアラー・トゥ・ジー」「タッチ・ザ・ヘム・オブ・ヒズ・ガーメント」などがある。
56年、デール・クックDale Cookeという名で、初めて世俗的な歌「ラバブル」を発売する。名前を変えたのは、それまでのファンの拒絶反応を恐れたからで、事実、翌57年に自作の「ユー・センド・ミー」を自分の名で発売し200万枚という大ヒットになったときも、クックを金に目がくらんだ堕落した歌手として批判する人たちもたくさんいたのである(ゴスペル界からポップ・ミュージックの世界へ身を投じる黒人歌手はたくさんいるが、そのほとんどがある種の「後ろめたさ」を感じているといわれる)。
しかしクックは、その後も「ワンダフル・ワールド」「チェイン・ギャング」「ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー」といった白人層にも広く受け入れられるヒット曲を量産していった。注目すべきは、こういったヒット・シンガーとしての活躍と並行しながら、SARという音楽制作会社、音楽レーベルを設立したことだった。この行動は60年代前半という公民権運動の渦中にあって、黒人は雇われるだけではないという主張を、歌手として具現化した重要な一歩として評価されており、実際にSARからはジョニー・テーラーJohnnie Taylor(1938―2000)や、ボビー・ウーマックが在籍したバレンティノスなど、優れたソウル・ミュージック・シンガーやグループが巣立っていった。
ナット・キング・コールと同じように人種の壁を超え、大きな人気を得たクックだったが、64年12月11日、宿泊していたロサンゼルスのモーテルの女性マネージャーによって撃ち殺される(この事件に関しては未だに不明の点が多い)。亡くなった直後に発売された「シェイク」と「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」も大ヒット。時代はクックら先人たちに影響されて歌い出した黒人歌手によるソウル・ミュージックが全盛を迎えようとしていた。
[藤田 正]
イギリスの海軍軍人、探検航海者。キャプテン・クックとして知られる。ヨークシャーの小作人の子に生まれる。水夫生活ののち、1755年海軍に入った。七年戦争中、カナダで敵フランス軍の面前で危険な水深測量を敢行し、上官に認められた。その後、測量術のほか、天文学、幾何学などを学び、68年学士院により金星の太陽面通過観測のための調査隊員に選ばれ、エンデバー号艦長として調査隊を率いてタヒチ島に赴き、観測を成功させた(1769)。さらにニュージーランド、オーストラリア東岸、ニューギニア南東岸などを探検し、西回りに世界を周航して、71年帰国。翌年、レゾリューション号とアドベンチャー号を率いて第2回周航に出帆、南航して南極圏に達し、当時一部に信じられていた南方の「未知の大陸」テラ・アウストラリス・インコグニタTerra Australis Incognitaが実在しないことを立証した。そのあとニュー・カレドニア、ソロモン諸島など、太平洋の多くの島を訪れ、東回りに周航して、75年帰国。76年レゾリューション号とディスカバリー号を率いて三たび出航、ニュージーランドから北上してサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に至り、さらに北上を続けて北アメリカ西岸からベーリング海峡の北に達した。のちサンドイッチ諸島に引き返したが、同地で住民に襲われ、79年2月14日非業の死を遂げた。彼は優れた船乗りであっただけでなく、ニュージーランドやオーストラリア東岸などの精密な地図を作成し、また長年船員の職業病とされてきた壊血病の予防に成功するなど、優れた科学者でもあった。
[松村 赳]
『クック著、荒正人訳『太平洋航海記』(1971・社会思想社・現代教養文庫)』▽『アリステア・マクリーン著、越智道雄訳『キャプテン・クックの航海』(1982・早川書房)』
イギリスの電気技術者。ダーラム、エジンバラ両大学を経て、軍に入隊しインドに赴任。除隊後パリ、ハイデルベルク大学で医学を学んだ。シリングPaul von Canstadt Schilling(1786―1837)の電信機や物理学者ミュンケGeorg Wilhelm Muncke(1772―1847)に触発され電信を研究し始めた。1837年3針電信機を完成、続いてホイートストンと共同で4針電信機、5針電信機を製作、特許を得て試験電信線をユーストン―キャムデン間に設置した。翌1838年イギリス初の電信線をパディントン―ウェスト・ドレイトン間に2針電信機で建設、1845年単針電信機を発明した。技術協会アルバート金賞を受賞。
[木本忠昭]
近代的な意味での旅行業を創始したイギリスの旅行代理業者。ダービーシャーのメルボーン生まれ。若いころバプティスト教会の伝道師として、工場労働者の飲酒の弊害を痛感し、禁酒運動に努めたが、禁酒大会の集まりをよくするため、当時はまだ珍しく高価でもあった鉄道に目をつけ、列車を借り切って割安で乗れるようにし、大好評を博した。史上初の公募団体列車は、1841年に開催された禁酒大会のため、レスター―ラフバラ間で運行された。これがきっかけとなって一般の団体旅行も扱うようになり、55年のパリ万国博覧会のときからはヨーロッパ大陸その他への団体旅行も始め、大成功を収めた。またホテルや乗り物の予約代行など、今日の旅行では不可欠なさまざまな業務を創始した。会社名はトマス・クック・アンド・サンズ社で、73年には画期的な『ヨーロッパ鉄道時刻表』を発刊している。
[紅山雪夫]
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イギリスの法律家,政治家。1578年弁護士となり,89年に下院議員に当選,92-94年法務次官,93年下院議長,94-1606年法務長官と重職を歴任。このころまでのクックは,国王大権の強い支持者としてカトリック教徒や政治犯に厳しく対処していた。1606年に人民訴訟裁判所首席裁判官に任ぜられると(1613まで),コモン・ローの至上性の強い主張者となり,以後国王,宗教裁判所,衡平法裁判所など国王大権および非コモン・ロー裁判所に対して,コモン・ロー,コモン・ロー裁判所の優位を主張し続ける。13年にはジェームズ1世が,クックの宿敵F.ベーコンの画策に従い,クックをその意に反して王座裁判所首席裁判官に昇任させ,併せて枢密顧問官に任じた。しかし15年に衡平法裁判所の管轄権をめぐり大法官エルズミアLord Ellesmereと争い,エルズミアおよびベーコンと結んだ国王の裁定に敗れ,首席裁判官も枢密顧問官も免ぜられた(1616。ただし翌年に枢密顧問官には再任)。野に下ったクックは,その後の最初の議会が開かれる21年に下院議員として当選し,以後下院の政府反対派の領袖として,コモン・ローの優位,人民の自由の擁護に努めた。この点は特に,近代イギリス憲法の柱の一つとされる有名な権利請願(1628)が彼の起草・推進によるという事実からも推測できる。クックの著作は,特に13巻に及ぶ《判例集》(1600-59)と,4巻の《イングランド法提要》(1628-44)が有名で,共に高い権威を有している。
執筆者:小山 貞夫
イギリスの探検航海者。太平洋の地理的全貌は彼によってほぼ明らかにされた。通称キャプテン・クック。ヨークシャーに生まれ,1746年に見習水夫となったのち,55年に海軍に身を投じた。63-67年,ニューファンドランド島の沿岸測量に従事し,その成果によって海軍軍人としてのみならず,科学者としての高い評価をえた。その後,ローヤル・ソサエティの要請により3回にわたって太平洋の探検航海を試みた。第1回航海(1768-71)では,タヒチ島で金星の太陽面通過を観測したのち,ニュージーランドの沿岸を測量し,またオーストラリア東岸を〈発見〉した。第2回航海(1772-75)は,当時,その存在を信じられていた〈テラ・アウストラリス(南方大陸)〉の探索を使命として南氷洋を航海し,またこれまで誤り知られていた太平洋の島々を地図上に正確に記入した。第3回航海(1776-79)は,北大西洋と北太平洋を連絡する北西航路の探索を目的とし,これには成功しなかったがハワイ諸島を〈発見〉した。しかし79年2月14日,島民との争いにより,ハワイ島西岸のケアラケクア湾で戦死した。3回の太平洋航海を通じてクックは多くの島を〈発見〉もしくは〈再発見〉し,南方大陸と北西航路の迷信を打破した。また,多くの貴重な民族学的・博物学的な資料を収集して学界に大きな貢献をした。通算10年におよぶ航海中,当時の船乗りを悩ませた壊血病での死者を1人も出さなかったことも,特筆されるべきクックの功績である。
執筆者:石川 栄吉
フランドルの画家。タピスリー,ステンド・グラスの下絵画家,建築理論家。アールスト生れ。ファン・オルレイに師事した後,イタリアに旅行し1525年帰国。27年アントワープで自由親方に登録。33年コンスタンティノープルへ旅行(死後1553年に,木版画シリーズ《トルコ人の風俗と流儀》が出版される)。多くの祭壇画にフランドル・マニエリスム様式を導入。高い教養の持主であった彼は,ウィトルウィウスの《建築十書》の要約,セルリオの《建築論》のオランダ,フランス語訳を行い,49年のフェリペ2世のアントワープ訪問を記念した《勝利の入場》などを出版。後妻マイケンMaykenも著名な細密画家であり,弟子で娘婿にピーテル・ブリューゲル(父)がいる。
執筆者:森 洋子
アメリカの金融業者,鉄道業者。オハイオ州生れ。1839年から銀行に勤務し,61年ジェー・クック商会を設立した。サーモン・チェース財務長官と交際があったことから,南北戦争の戦費のための政府債の発行業務の任に当たり,それに成功して財と名声をえた。戦後,有力金融業者としてノーザン・パシフィック鉄道の建設に乗り出したが,73年破産し,これが73年恐慌の発端となった。のちに,ユタ州における鉱山業の成功によって,債務から解放された。
執筆者:小沢 治郎
イギリスの旅行代理業者。熱心な禁酒論者で,1841年禁酒運動の大会へ同志を団体旅行させたのを皮切りに旅行斡旋業をはじめた。51年のロンドン万国博覧会で大成功を収めたうえ,海外旅行にも事業を拡大,現在,全世界の主要地に支店を置く世界屈指の旅行社トマス・クック・アンド・サン社となっている。同社は1873年《ヨーロッパ鉄道(および連絡船)時刻表兼旅行ガイド》を発刊,現在は全世界の鉄道時刻表を発行している。
執筆者:小池 滋
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1728~79
南北太平洋をくまなく航海し,その全貌を明らかにしたイギリスの海軍軍人。1755年海軍に入り,ケベック沿岸の測量に従事した。68~71年,ロイヤル・ソサエティから,金星の蝕観測のためタヒチ島に派遣され,ニュージーランドを回航,オーストラリア東岸を北上し,バタヴィア経由で帰国した。72~75年には,海軍本部から「南方大陸」の探検のために派遣され,南太平洋の多くの島々を回り,南極圏まで航海した。76年には,北太平洋に入ってハワイ諸島に到達し,さらに北方航路の探索を企て,ベーリング海峡付近まで北上したが,反転して79年2月ハワイ島に戻ったとき,現地住民と衝突して殺された。
1552~1634
イングランドの法律家。法務長官などの司法の要職を歴任。当初は王権の擁護者としてもろもろの事件に厳しい判決を下したが,1606年民訴裁判所主席判事,13年王座裁判所主席判事に任じられると,コモン・ローの擁護の立場から王権に対する法の優位を唱えて罷免された。21年下院議員となると,国王の専制に対する反対運動を指導。28年「権利の請願」の起草にあたった。
1808~92
イギリスの旅行業者。バプティスト派の宣教師で,熱心に禁酒運動を展開し,大会のための団体旅行を企画した。1851年のロンドン万国博覧会にも地方の団体客を送り込み,世界で有数の旅行会社を築いた。
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…冷めても固まらない植物油の多用や,スープ,煮汁,漬物汁なども匙で食べるので,それに見合うような副食料理へと料理内容が適合し発展してきたといえる。【鄭 大 声】
〔朝鮮料理の副食〕
スープ類クック,湯(タン)などとよばれ,わかめスープ(ミオックック)がもっとも有名である。ご飯には必ずつき,匙で食べる。…
…しかし大法官府裁判所が16世紀までにその管轄をきわめて広くしたために,管轄が衝突する場合が多くなり,かくしてコモン・ローに寄生するコモン・ロー法曹の職業的利益が侵されることにもなり,絶対王政とその反対派との政治的争いもからんで,16,17世紀にはこの提携関係が崩れ,両者はしばしば闘争を繰り返した。特にコモン・ロー支持,反絶対王政側のリーダーであるE.クックと大法官エルズミアLord EllesmereおよびF.ベーコンとの激突は有名であるが,その結果の国王の裁定(1616)により,大法官府裁判所の権能は最終的に確認され,革命期の一時的危機の後,王政復古(1660)以後はその存在は脅かされることなく隆盛となった。 このように大法官府裁判所が確立されてくると,いかに具体性を尊重するとはいえ,多数の類似の事件に異なった判決を与えることはそれ自体が衡平に反することになり,ここに集積された判例を中心にした慣行・判例法が生じてくる。…
… 法の支配は,しばしば,英米法の基本原理の一つであるとされる。そして,17世紀初頭にイギリス国王と議会との間に抗争が生じた時期に,王権神授説を振りかざすジェームズ1世がコモン・ロー裁判所と教会裁判所の間の裁判権の争いについてみずから判決を下そうとしたのに対し,E.クックが,13世紀に公刊されたH.deブラクトンの有名な著作から,〈国王は何人の下にもあるべきではない。しかし,神と法の下にはあるべきである〉との一句を引いて対抗したというエピソードが,しばしば引用される。…
…15世紀初頭,中国人の船隊が大陸北岸に上陸したのを皮切りに,17世紀初めから後半にかけてタスマンほかの海洋探検家による局地的上陸が行われた。1770年4月28日のJ.クックのシドニー郊外ボタニー湾上陸,同年8月のポゼション島での大陸東部イギリス領宣言(全大陸のイギリス領宣言は1829年)によって,先住民の大陸占拠は終りを告げた。 1788年1月18日,フィリップArthur Phillipの第1次船団(11隻。…
…山がちではあるが,肥沃な土壌に恵まれ,サトウキビ,米,パイナップルなどの農業が発達する。1778年ジェームズ・クックがハワイ諸島の中で最初に上陸したのがこの島。西側のニーハウ島とともにカウアイ郡を構成し人口5万(1990)。…
…1577‐80年史上2度目の世界周航を達成したF.ドレークは海賊として有名だが,18世紀の科学的探検時代の先駆者ダンピアもこうした海賊の一人だった。イギリスとフランスの航海者たちが科学的探検時代に活躍したが,代表はJ.クックである。金星の太陽面通過観測のために1769年にタヒチ島を訪れてから,79年までの間にクックは3回の探検航海を実施した。…
…現国王トゥポウ4世はこの王朝の系統を引いている。 トンガを3度(1773,74,77)訪れたJ.クックは,住民から親切なもてなしを受け,ハアパイ群島をフレンドリー・アイランズと名づけた。トゥポウ1世(在位1845‐93)がキリスト教に改宗して以来,キリスト教は急速に広まり,現在ではほとんどの国民がキリスト教徒で,安息日は厳格に守られている。…
…まず16~17世紀にかけてサウス・ジョージア島などの大陸周辺の島々が報告された。確かな南極圏突破は1772‐75年のイギリスのJ.クックによる南極大陸の周航である。これは,南極大陸への最初の接近といえる。…
…正式名称=ニュージーランドNew Zealand面積=27万0534km2人口(1996)=362万人首都=ウェリントンWellington(日本との時差=+3時間)主要言語=英語,マオリ語通貨=ニュージーランド・ドルNew Zealand Dollar赤道と南極の中間,南太平洋の南緯34゜~47゜に位置するイギリス連邦内の自治領。北島(面積11万5777km2)と南島(15万1215km2)の2大島,南島の南のスチュアート島,東方のチャタム諸島などからなり,ポリネシアのクック諸島,トケラウ諸島,ニウエ島も含む。温暖な気候に恵まれた牧畜国で,自然保護と高福祉政策を誇る。…
…ハワイはいくつかの首長国に分かれ,それぞれにアリイ・アイモクと呼ばれる大首長が君臨していた。1778年3度目の探検航海の途上,J.クックはハワイを訪れ,彼のスポンサーの一人サンドウィッチ伯爵の名にちなんで諸島をサンドウィッチ諸島と命名した。翌年再訪したクックは,ボートを島民に盗まれたため大首長の一人を人質にしようとして,逆に殺されてしまった。…
…これは41年12月から月刊となり,鉄道のほかに汽船の時刻も加え,1961年6月まで続いたので,〈ブラッドショー〉は〈鉄道時刻表〉を意味する語として,一般に認められた。一方,イギリスで世界最初の旅行代行社を創立したトマス・クックは,1873年に《クックのヨーロッパ大陸時刻表》を創刊,以後海外旅行者に多く利用され,今日ではヨーロッパ版と,ヨーロッパ以外の全世界を収録する海外版の2種類を発行している。 日本では東海道本線の新橋~神戸間が全通した1889年の8月に,大阪の忠雅堂が刊行した《日本全国汽車時間表》が,冊子式全国鉄道時刻表の最初である。…
…この場合,体表面に傷をつけて文様をしるすという意味で広義に〈文身〉をとらえ,その下位区分として入墨を刺痕文身と称し,色料を使わない瘢痕(はんこん)文身cicatrizationまたはscar‐tattooingと区別する。入墨を意味する英語のtattooは,18世紀後半にクック船長が南太平洋のタヒチでtatauと呼ばれていたこの習俗を西欧社会に紹介したことに由来する。入墨自体およびその技法は多種多様で,人々の自然環境や文化的背景を反映している。…
※「クック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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