パピニアヌス
ぱぴにあぬす
Aemilius Papinianus
(?―212)
        
              
                        古代ローマの法学者。シリアまたはアフリカ出身といわれるが確かでない。皇帝セプティミウス・セウェルスの姻戚(いんせき)ともいわれ、ともにスカエウォラの門弟として、同帝に重用され、203年以来近衛(このえ)総監となるが、212年カラカラ帝の弟ゲタ殺害に賛成しなかったので処刑された。近衛総監のとき、パウルスとウルピアヌスを顧問員として有力な解答responsaを多く発した。著書に『質疑録』Quaestiones、『解答録』Responsa、『姦通(かんつう)論』De Adulteriisなどがある。しかしユスティニアヌス1世の『学説集』Digestaにおける引用は、ウルピアヌスの6分の1、パウルスの3分の1と比較的少ない。
[弓削 達]
                                                          
     
    
        
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                    パピニアヌス
Aemilius Papinianus
生没年:?-213
        
              
                        ローマ法古典期晩期(元首政期)の代表的法学者。その出身は不詳。セプティミウス・セウェルス帝のもとで近衛長官を務めたが,カラカラ帝が弟ゲタを殺害した際これを是認せず,このため同帝により命を失った。深い思考,確かな判断,倫理的側面の重視などから最も優れたローマ法学者に数えられ,ことに後古典期において,またその影響のため中・近世のヨーロッパにおいて,最高最大の法学者としてあがめられた。代表的著作として,事例解決にその重点を置き,併せて理論的考察をも含む《質疑録》37巻,《解答録》19巻がある。
執筆者:西村 重雄
 
                                                          
     
    
        
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                    パピニアヌス
Papinianus, Aemilius
        
              
                        [生]140頃.エメリ(現シリア,ホムス)
[没]212
ローマ法学者中,最高権威の一人。セウェルス帝の顧問会の一員で,副皇帝ともいうべき近衛の要職にあったが,セウェルスの子カラカラ帝の命によって殺された。伝説によると,カラカラの弟および政敵ゲタ暗殺事件を正当化しようとしたカラカラの意に従わなかったためといわれる。このために,後世「正義の権化」と尊敬された。法律問題の解決にあたっては,衡平の観念に基礎をおき,技術的処理よりも倫理的正しさを追求した。主著『質疑録』 Quaestiones (37巻) ,『解答録』 Responsa (19巻) は,前代の学者の創造した成果をさらに完成の域に導き,これを精密にしたローマ法学の精華であるといわれている。
                                                          
     
    
        
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		世界大百科事典(旧版)内のパピニアヌスの言及
    		
      【プレッツォリーニ】より
        
          
      …イタリアの文学者。盟友[パピーニ]とともに,1900年代初頭20年間のイタリア文学界を主導した雑誌のオルガナイザーであった。早くに学業を中断,フィレンツェに移住。…
      
     
    		
      【ボーチェ】より
          
      …事実,南部問題,普通選挙権,教育,イタリアによるリビア併合,回復主義などの政治・社会問題が,主要記事として登場した。しかし寄稿家たちの思想基盤の多様性がリビア戦争を機に雑誌の分裂を推進する結果になり,この戦争に強く反対したサルベーミニがまず脱退し,一時編集を受けもったパピーニは新たに《ラチェルバ》誌を創刊して[未来派]に接近し,プレッツォリーニ自身も第1次世界大戦への積極的な参戦論を唱えるようになり,雑誌は初期の目的を完全に見失うにいたった。その後,デ・ロベルティスが編集を担当すると,雑誌は完全な文芸誌と化し,ウンガレッティをはじめ,カルダレリ,カンパーナ,セラなど多彩な寄稿家を加えるようになったが,新たな文学運動を展開することもなく,単なるアンソロジー的な性格の強い雑誌となった。…
      
     
         ※「パピニアヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 
        
    出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
	
    
  
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