単にパーマともいう。電気や薬品などで、頭髪を波状(ウエーブ)に縮らせること、およびその技法。
[横田敏一]
エジプト時代、アルカリ性の粘土を髪につけ、刻んだ木の枝で髪を巻き込み、乾燥させておいてよく水洗いをし、毛髪にウエーブをつくった、という記録がある。ギリシアやローマでは、カラミストラムというアイロンを熱し、カールやウエーブをつくっていたといわれ、その後のヨーロッパで幅広くこの方法が受け継がれた。
パーマネント・ウエーブ(永久波状)が実用化するのは、ずっとあとの20世紀になってからである。1905年、ドイツ生まれのチャールズ・ネッスラーCharles Nesslerがロンドンで発表、アメリカに渡って実用化に成功した。わが国に紹介されたのは1923年(大正12)で、35年(昭和10)ころには国産のパーマネント器が製造されるようになり、パーマネント・ウエーブはしだいに流行するようになった。しかし、第二次世界大戦中は欧米の敵性用語、敵性流行物としてパーマネント排斥運動が起き、ついには禁止令が出るなど、絶滅の観があった。
この当時のパーマネントは加熱によってかけるもので、ミシン・ウエーブ、プレヒート・ウエーブ、ミシンレス・ウエーブなどの呼称の各方法が採用されていた。これらに使用するアルカリ性薬液は、加熱しなければウエーブをつくることができなかった。
現代のコールド・パーマネント・ウエーブは、多くの研究家の改良を経て、1936年ごろイギリスのスピークマンJ. B. Speakmanによって発表されたものである。1947年アメリカのFDA(食品医薬品局)によって、チオグリコール酸アンモンを主体としたコールド・パーマネント・ウエーブ液は安全なものであるとの立証がなされ、その後も改良が加えられながら、今日に至っている。日本には、1948~49年(昭和23~24)にかけて、コールド・パーマネント・ウエーブの紹介があった。天然のウエーブをもつことの多い白人に比べ、直毛の多い日本人はウエーブ志向が強く、以来今日まで人気を保ち続けている。
[横田敏一]
第二次大戦後の目覚ましい経済復興のなかで、コールド・パーマネント・ウエーブ剤も大量に生産されるようになり、かつては限られた階層の女性用だったものが、ごく一般的にみられるほどに普及した。戦後の女性のヘアスタイルは、パーマネント・ウエーブを基礎とするケースが多かった。全体に波状をはっきりとさせ、均一にしっかりかけ、その後の処理として、ローラー・セットやピンカール・セットをしたあと、ブラシや櫛(くし)で仕上げを行い、その時々のヘアスタイルを完成させていた。
そして1973年以降ヘアカット・ブームが到来し、カット技術との関連でパーマネント・ウエーブ技法も変化し、その技法には次のようなものがある。〔1〕ローラーやピンカール。セットのもちをよくする土台となるもの。〔2〕カット・アンド・ブロー(ブロッシング)技法でのカットの持ち味を最大限に生かすための補助役となるもの。〔3〕いろいろなパーマ手法を用いて、自然乾燥で仕上げるためのもの。以上を中心にして、さらに、〔4〕指とハンド・ドライヤーの熱風で仕上げるフィンガー・ブロー法など、短時間に自分で仕上げができる手法が考えられている。
[横田敏一]
頭毛を構成する皮質は、鎖状に結合したケラチンからなり、この鎖のうち、長軸のケラチンをポリペプチド鎖、鎖を横につなぐ役目をする側鎖(そくさ)をシスチン結合という。毛をロッド(カーラー)に巻くと、外側のポリペプチドは元の状態に戻ろうとする。そこでアルカリ(コールド・ウエーブ剤第一剤=チオグリコール酸アンモン主体のもの)を作用させて、シスチン結合をいったん切る。弾力性が失われたところで、第二剤(ブロム酸ナトリウム主体のもの)で中和すると、ロッドのカーブのままで固定し、元の弾力ある状態に復原する。これが基本的な原理である。
[横田敏一]
熱または化学薬品の作用で,毛髪の組織に変化を与え,髪にウェーブをかける方法。名称は長期間(3~4ヵ月)にわたってウェーブを保つところから名づけられたもので,略してパーマ,パーマネントとも呼ばれる。毛髪をカールさせる方法は,1872年パリの結髪師マルセル・グラトーの作り出した焼きごてによるマルセル・ウェーブが,上流婦人や女優たちに広まっていた。これに対し電熱を利用したウェーブ法は1905年,ドイツ生れの結髪師ネスラーKarl Nesslerにより,ロンドンで発表された。彼は名前をフランス風に改め,オックスフォード街に世界で最初の〈ネスレ・パーマネント・ウェーブ〉という看板を出した。第1次世界大戦が始まるとともにアメリカに渡り,断髪(ボブ)にウェーブをかけることを流行させ,24年ころにはアメリカ,イギリスの女性の間で大流行したといわれる。この初期のパーマはホウ(硼)砂を基剤に使い,アイロンで加温するもので,時間もかかり高額であった。
日本に紹介されたのは,1923年神戸で外国人対象の美容院を経営していた紺谷寿美子がパーマ機を買い入れたことに始まるといわれ,30年代の初めには一般に普及した。35年ころから国産品も作られるようになり,しだいにアイロン応用の〈洋髪〉に代わって流行するようになった。40年には東京でパーマを業とする店が約850軒に及ぶ普及ぶりであった。日中戦争から太平洋戦争にかけては敵性語禁止のため〈電髪〉と呼ばれるようになり,追放・自粛運動が行われ,機械も多く供出された。当時アメリカではコールド・パーマネント・ウェーブcold permanent waveの時代に入っており,終戦とともに進駐軍家族によって紹介され,48年ころには国産の薬液が製品化されて,美容・理容業界に大きく広がっていった。
コールド・パーマはイギリスの化学者J.スピークマンが1936年に羊毛の分子構造の研究から,頭髪のケラチン細胞の側鎖を切るコールド・ウェーブの原理を完成したことに始まるといわれる。化学結合の開裂を伴う〈変性〉を巧みに利用したもので,ロッドに巻いた毛髪に還元剤(チオグリコール酸塩が主剤)の第1液と酸化剤(ブロム酸ナトリウムなどが主剤)の第2液を作用させる二浴式を主流とする。40年代のアメリカでは,家庭で行えるホーム・ウェーブ(パーマ)用の薬品や用具も売り出されている。パーマの発明以降,女性の髪形は活動的で変化のあるものとなり,パーマの技術もさまざまに,くふうと革新が行われてきた。83年には,逆にウェーブを消し直毛を作り出す目的でストレート・パーマと呼ぶ技法が登場したが,毛髪保護や髪形への応用などでは未解決の点が多い。
執筆者:坂口 茂樹
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