パーラセーナ朝美術(読み)パーラセーナちょうびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「パーラセーナ朝美術」の意味・わかりやすい解説

パーラ・セーナ朝美術 (パーラセーナちょうびじゅつ)

8~12世紀にインドのビハール,ベンガル両地方(現在のインド東部とバングラデシュ)で展開した美術で,インド仏教美術の末期を代表し,セーナ朝治下ではヒンドゥー教美術も行われた。インドの他の地方では衰退した仏教もこの地方ではパーラ朝の諸王の保護をうけて最後の繁栄をみた。大乗仏教が民間信仰を取り入れて密教金剛乗)として新しい展開を遂げたのもこの時代である。ボードガヤーサールナートナーランダーなどの伽藍は増改築され,オーダンタプリーOdantapurī(古名ウッダンダプラ),ビクラマシラーVikramaśilā,パハールプル(古名ソーマプラ)などの伽藍が新しく造営された。これらの広壮な学問寺にはインドのみならず,東南アジアからも多くの修行僧が集まった。チベットの伝承によるとビクラマシラー寺は最も殷賑をきわめ,チベットに密教を伝えた学僧の大半はこの寺院の出身であったという。

 1960年より続けられているビハール州バーガルプル県アンティチャフでの発掘は,ダルマパーラ(在位770ころ-810ころ)が創建したというビクラマシラー寺の全容を明らかにしつつある。その主要部は,十字形プランの基壇上にある大ストゥーパを1辺330mもの四面僧房で囲ったインド最大の構築物である。ストゥーパと僧院とは元来独立した別個のものであったが,その複合体は同時代のパハールプルやマハースターンにも見られるところから,インドの末期の仏教寺院特有の形態と思われる。寺院の多くは煉瓦造で,基壇をテラコッタ板で飾り,パハールプルからは多数のテラコッタ浮彫が出土した。石彫はほとんどが黒い玄武岩を用い,その緻密な石質のゆえに精巧な細工が可能であった。ナーランダー,クルキハルKurkiharなどではブロンズ像の制作も盛んで,スルターンガンジSultāngañjからは高さ約230cmもの仏立像が出土した。また絵画遺品としては経典挿絵としての細密画がある。密教の展開に伴って尊像の種類が急激に増加し,旧来の釈迦像や仏伝図浮彫に加えて,多面多臂の複雑な像容をとるものや,女性の尊像も出現した。密教経典に説かれる諸尊を供養する方式規則を儀軌と呼び,この儀軌において多種多様な像容が細かく規定され,造像法も定型化した。この時代の彫刻はグプタ様式,とくにサールナート派のそれを継承し,優美にして繊細な作品も生んだが,かつての仏像がもっていた深い精神性はもはやここには見いだせない。多くは精緻な表現に気を配るあまり生気の乏しい形式化したものとなり,造像規定の厳格な遵守はその傾向にいっそう拍車をかけた。なお400年に及ぶパーラ様式の変遷はまだ解明されていない。このパーラ様式は東南アジア,ネパール,チベットに伝えられ,それらの地で新たな展開をみせた。なおこの頃オリッサ州のカッタク周辺でも密教が栄えたことは,近年発掘されて注目を集めているラトナギリその他の伽藍址から明らかとなった。パーラ朝に代わって11世紀末にベンガル地方を支配したセーナ朝はヒンドゥー教を保護し,首都ラクナウティーに壮麗な寺院を造立したが,14世紀にイスラム教徒に破壊され,その石材はモスク造営に転用された。
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世界大百科事典(旧版)内のパーラセーナ朝美術の言及

【青い山脈】より

…【保昌 正夫】
[映画]
 今井正監督が〈健康で明るい青春映画仕立て〉(岩崎昶)で1949年に映画化。〈大胆な〉海水浴シーンにおける新子役の新人杉葉子と,新しい思想の持主である島崎雪子役の原節子の毅然(きぜん)とした美しさが,戦後の〈民主主義映画〉の中でも際だった解放感を与えて大ヒット(配収1億2000万円)。挿入曲《恋のアマリリス》や,女学生たちが自転車に乗ってさわやかに走るシーンに流れる同名主題歌も(今井正監督はこの主題歌を毛ぎらいしていたといわれるが)大流行した。…

【東京物語】より

…脚本は監督自身と名コンビの野田高梧,撮影は《戸田家の兄妹》(1941)以来常連の厚田雄春,音楽はこの作品から常連になる斎藤高順。地方から上京した老夫婦(笠智衆,東山千栄子)が血縁の子どもたちの家に快く迎えられず,逆に戦死した息子の嫁(原節子)にもてなされるという題材は,アメリカ映画《明日は来らず》(レオ・マッケリー監督,1937)に想を得たものといわれるが,召集中の小津はその映画を見ておらず,それは野田高梧の脚本に影響を与えたにとどまる。老境を迎えた両親と壮年に達した子どもたちとの関係はむしろ《戸田家の兄妹》の戦後版といえよう(もっとも,《戸田家の兄妹》そのものもヘンリー・キング監督のアメリカ映画《オーバー・ゼ・ヒル》(1931)の翻案といわれているのだが……)。…

【成瀬巳喜男】より

…同期の小津安二郎ほどの厳密さはないが,固定画面を多用し,日本建築の廊下や縁側にたたずむ人物たちから抑制の利いた抒情性を引き出したその空間感覚によって世界的に評価されるに至る。《妻よ薔薇のやうに》(1935)での女性像(千葉早智子)の鮮やかさは,《鶴八鶴次郎》(1938)の山田五十鈴,《めし》(1951)の原節子などにうけつがれ,《稲妻》(1952)に始まる高峰秀子とのコンビを決定的なものにする。林芙美子原作の《浮雲》(1955。…

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