インド東部,ビハール州のパトナーの南東約90kmにある仏教遺跡。中国では那爛陀と音訳。仏教研究の中心として5~12世紀に栄えた学問寺があった。7世紀前期には玄奘が,7世紀末期には義浄がここで学んだ。玄奘によると,グプタ朝のクマーラグプタ1世(在位415ころ-454ころ)が創建し,グプタ後期の諸王やハルシャ・バルダナ王(在位606ころ-647)も次々と僧院を造営し,数千人の僧徒がいたという。また義浄は,形のよく似た八つの僧院のほか,大ストゥーパその他の建物が連なっていたと記している。唯識学派のダルマパーラ(護法)やシーラバドラ(戒賢)などの著名な学僧を輩出し,のちには密教の中心道場として教学を主導した。またパーラ朝の諸王が競って造寺造仏を行い,インドのみならず東南アジア各地からも留学僧が集まっていたらしい。
東西250m,南北600mの中心の区域は,1915年から20年余にわたって発掘され,煉瓦造の5基の祠堂と10基の大僧院の跡が明らかにされた。西向きの八つの大僧院が南北に1列に相接して並び,その南端に北向きの2僧院がある。僧院はほぼ同形同大で中庭の四周を僧房が囲み,重層であったらしい。四つの祠堂は僧院の西方に間隔を置いて位置し,南端の第3祠堂は最も規模が大きく,7度の改築拡大の跡があり,一部に塑造の仏像がのこる。また後グプタ期からパーラ期まで(6~12世紀)の末期の仏教彫刻を代表する多数の石やブロンズの彫像が出土し,図像学的に注目に値するものが多い。ブロンズ像はネパールやチベット,またジャワのそれに近似し,影響の強さをうかがわせる。出土品の多くは現地の考古博物館に収められている。
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
5世紀から12世紀にわたって北インドに栄えた有名な学問寺の跡で、中国では「那爛陀」と音写される。玄奘(げんじょう)が6年間をここで過ごした7世紀前期には、数千人に及ぶ学僧の集まる壮大な伽藍(がらん)であったという。インド東部、ビハール州パトナ市の南東約80キロメートルにあり、整備された2キロメートル四方の遺構には煉瓦(れんが)積みの五つの祠堂(しどう)、10の僧院址(し)が保存されている。当地では後(ポスト)グプタ期からパーラ時代(6~12世紀)にかけて造像活動が盛んで、遺跡に隣接する考古博物館には、出土した石造・青銅製の彫刻類、とくに密教系の尊像が数多く展示されている。石像は大部分が光沢のある黒い玄武岩が用いられ、チベットやネパール、あるいは東南アジアの仏教尊像の様式に、大きな影響を与えた。
[秋山光文]
2016年、「ビハール州ナーランダー・マハービハーラ(ナーランダー大学)の遺跡」としてユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。
[編集部 2018年5月21日]
インドの仏教僧院跡。ビハール州南部,ラージャグリハの近くにある。前5世紀頃の仏典にも言及されるが,現在の遺構はグプタ期以降のものである。グプタ朝後期のナラシンハグプタやハルシャ・ヴァルダナ,パーラ朝の保護を受け,仏教教学の中心として栄えた。法顕(ほっけん)をはじめとする中国僧も訪れ,特に7世紀の玄奘(げんじょう)と義浄(ぎじょう)は長期にわたって滞在し,サンスクリットと仏教学を学んだ。パーラ期にジャワのシャイレーンドラ朝の王により僧院が建立されるなど,東南アジアとの関係も深かった。13世紀初めにムハンマド・バーフティヤール・ハルジーの攻撃を受け焼失した。パーラ期の大ストゥーパなどが発掘されており,現在も調査が続けられている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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