コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ネパール ネパール Nepal

翻訳|Nepal

7件 の用語解説(ネパールの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ネパール
ネパール
Nepal

正式名称 ネパール連邦民主共和国 Sanghiya Loktantrik Ganatantra Nepal。面積 14万7181km2。人口 2662万9000(2011推計)。首都 カトマンズ

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

ネパール

08年に王制を廃止し共和制に移行したが、政情不安定な状態が続く。外務省のHPによると、識字率は54%。山間部では10%に満たない地方もある。1人あたりの年間所得は約3万円。

(2009-03-13 朝日新聞 朝刊 岐阜全県 1地方)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ネパール(Nepal)

ヒマラヤ山脈中部南麓を占める連邦民主共和国。首都カトマンズ。北は中国チベット自治区に、南はインドに接する。エベレストマナスルなどの高峰があり、登山で知られる。農耕・牧畜を主産業とし、人口の約80パーセントヒンズー教の教徒。13世紀末以来マッラ朝が栄え、1769年グルカ朝が成立。1951年に立憲君主制を宣言。内政が安定せず、2008年5月に制憲議会が開催され、共和制宣言がなされ、王政を廃止。人口2895万(2010)。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

ネパール

◎正式名称−ネパール連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Nepal。◎面積−14万7181km2。◎人口−2649万人(2011)。
→関連項目サガルマータ国立公園南アジア

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

世界大百科事典 第2版の解説

ネパール【Nepal】

正式名称=ネパール王国Nepal Adhirajya∥Kingdom of Nepal面積=14万7181km2人口(1996)=2089万人首都=カトマンズKāthmāndu(日本との時差=-3.5時間)主要言語=ネパール語通貨=ネパール・ルピーNepalese Rupeeインドと中国チベット自治区の間(北緯26゜20′~30゜15′,東経80゜05′~88゜13′)に位置する王国。19世紀以来鎖国していたが,1951年の王政復古後開国し,55年には国連に加盟した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ネパール【Nepal】

ヒマラヤ山脈の南麓、中国のチベット自治区とインドとの間にある内陸国。連邦民主共和制。ヒマラヤ登山で知られる。主産業は農牧業。住民はグルカ族・ネワル族など。ヒンズー教を国教とする。釈迦の生誕地。首都カトマンズ。面積14万7千平方キロメートル、人口2710万( 2005)。正称、ネパール連邦民主共和国。 〔2008 年 5 月、240 年続いた王制を廃止した〕 〔「捏巴爾」とも当てた〕

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ネパール
ねぱーる
Nepal

南アジア、ヒマラヤ山脈中部にある国。正称はネパール連邦民主共和国Federal Democratic Requblic of Nepalである。インドと中国(チベット自治区)に挟まれており、歴史的にその双方の文化的影響を受け、政治上も国際的緩衝地帯となっている。変化に富む自然環境と複雑な民族、言語、宗教、文化を構成するが、インド・アーリア系諸語のネパール語を国語とする。面積14万7181平方キロメートル、人口2819万6000(2007推計)。首都はカトマンズ。農業を主とするが、エベレスト山をはじめとする高峰をもち、登山者、観光客を集めている。[高山龍三]

自然

北部には大ヒマラヤ山脈、中央部にはそれに並行するいくつかの山脈と山間盆地や峡谷、最南部にはタライ平野があり、その地勢は高度差8000メートルに及ぶ起伏がある。大ヒマラヤ山脈の主嶺(しゅれい)は、東部のエベレスト山などは中国との国境とほぼ一致するが、中部以西ではマナスル、アンナプルナ、ダウラギリ山群のように国内を走り、国境にはチベット周辺山脈が連なる。これらの主嶺の南側は、標高2000~3000メートルのマハバーラト山脈との間に中間山地(ミッドランド)があり、山腹斜面が耕地化されていて、もっともネパールらしさをもつ地域である。さらにその南に下るとヒマラヤ山脈前山のシワリク(チューレ)丘陵があり、もっとも南側に標高200メートルのタライ平野がこれらの山脈を縁どり、インドのヒンドスタン平野に連なっている。ヒマラヤの氷河の水とモンスーンの雨を集める河川が山脈を横切って深い峡谷をつくり、またときには山脈と山脈の間を流れるなどして、いずれもガンジス川に流れ込む。東西に走る線で、ヒマラヤ高地、中間山地(盆地や峡谷を含む)、タライ平野と、地形を三つに分けることは、高度、地形、起伏、気候、植生のような自然のみならず、作物、生業、民族、宗教などの文化の区分としても有用である。また、東からコシ、ナラヤニ(ガンダク)、カルナリの三大河川を軸にして、東部、中部、西部と分けることも可能である。高低起伏を反映して、気候も亜熱帯から温帯を経て、高山帯に至るきわめて多様の変化をもつ。季節は冬を中心とする乾期と、6~9月の雨期に分かれる。夏のモンスーンはヒマラヤ山脈の南面に雨をもたらすものの、主嶺以北の北西部はこの時期にも乾燥している。このため亜熱帯林から照葉樹林を経て、針葉樹林、高山帯という幅広い植生がみられる。[高山龍三]

歴史

古代にはいくつかの王朝が現れたが、史実と伝説の区別は困難である。しかしバンシャーバリーとよばれる王朝譜や石碑文の解読、古写経、古貨幣の研究などによってしだいに史実が明らかにされつつある。伝説によれば、釈迦(しゃか)はタライ平野中部の町ルンビニーで生まれ、カピラバストゥ城で育ったといわれる。実証される最古の王朝はリッチャビ王朝で、5世紀後半と考えられる古碑文にマーナ・デバ王の統治が記されている。同王朝はアムシュバルマー王の時代に黄金期を迎え、当時の大都城のようすが唐の僧玄奘(げんじょう)によって記録されている(7世紀)。13世紀から18世紀中葉にかけて、マッラ王朝がカトマンズ盆地を支配した。14世紀後半同王朝のジャヤスティティ・マッラ王の時代に、カースト制度が取り入れられ最盛期を迎えたが、その孫のヤクシャ・マッラ王の没後、王国はバドガオン、カトマンズ、パタンの3国に分かれ、抗争と和平を繰り返した。肥沃(ひよく)な盆地の農業やネワール人がもつ工芸商才を背景にした都市国家が歴史の担い手であった。今日でもその中世都市の名残(なごり)を都市施設と建造物にみることができる。
 1769年カトマンズ盆地の西方100キロメートルの山地にあったグルカ(ゴルカ)土侯国の王プリトビ・ナラヤン・シャハは、マッラ王朝の内紛に乗じこれを征服、カトマンズに首都を移し、グルカ王朝を樹立した。この王朝が2008年の王制廃止まで続いたネパール王国の起源となった。グルカ王朝は東西に兵を進めて、東はシッキム、西はガルワールまでを征し、さらにチベットへも侵入した。中部ネパールのチョウビシ・ラージャ(24土侯)、西部ネパールのバイシ・ラージャ(22土侯)などの諸土侯国もグルカ王朝のもとに統一された。その後、王国は北方でチベットおよび清(しん)、南方でイギリス(東インド会社)と衝突した。1814年のイギリスとのグルカ戦争(ネパール戦争)ののち、16年にサガウリ条約が結ばれ、現在の領土に縮小、首都にイギリスの駐在官が常駐するようになった。19世紀中葉、王の家臣ジャン・バハドゥール・ラナが王宮中庭で虐殺を行い、国王の権力を奪ってマハーラージャ(宰相)の位につき、日本の徳川幕府に似た世襲制の将軍政治を確立し、以後1世紀間専制政治が続いた。その後ネパールはふたたびチベットと戦い、インドの大反乱(セポイの反乱)には兵を送ってイギリスを助け、イギリスと友好を保って独立を維持した。
 第二次世界大戦後、インドの独立に刺激されて、ネパール会議派など国民の反ラナ勢力が結集し、民主化への要求が高まった。1951年、インドの支援もあってトリブバン国王の王政復古がなり、ラナ政権、国王、ネパール会議派間の妥協が成立した。しかし政情が安定しないうちに1955年国王が死去、マヘンドラ国王が継承した。マヘンドラ国王はそれまでの部族長中心の封建政治の改革に着手し、1959年新憲法を発布、初の総選挙が施行されてB・P・コイララ内閣が生まれた。1960年末、王権の縮小を恐れた国王は突如閣僚を逮捕、議会を解散して憲法を停止し国王親政とした。ついで政党議会制民主主義にかわってパンチャーヤト民主主義という体制がとられ、1962年、その体制を取り入れた国王起草の新憲法が公布された。近代化を推進したマヘンドラ国王が1972年に死去、ビレンドラ国王が王位を継承、1975年に戴冠(たいかん)式をあげた。2001年ビレンドラ国王の死去により、国王の弟ギャネンドラが国王となった。2008年制憲議会で連邦民主共和制への移行が宣言され、王制は廃止された。
 ラナ時代から、民族的、宗教的、社会的慣習に基づいて、社会的生活を規定していた国家法典(ムルキ・アイン)があったが、1963年新国家法典が制定され、法のうえではカースト制の廃止、身分・宗教・性別による差別の廃止などがうたわれた。1990年に制定されたネパール王国憲法では、カーストに基づく差別は処罰するべきものとされた。[高山龍三]

政治・外交

パンチャーヤト(五人組、会議の意)制とよばれる体制を基盤としたが、これは一種の積上げ方式による政治体制で、村落(ガオン)および都市(ナガル)、郡(ジラ)、国家(ラシュトリヤ)の3段階からなっていた。国家パンチャーヤト議席は1980年、直接選挙による選出に改められた。1979年民主化を求めるデモの暴動化に際し、国王は民意を問うことにした。そして1980年、国民投票の結果、パンチャーヤト制支持55%、複数政党制支持45%で、やっとその体制が支持された。同年の憲法改正に基づき、1981年史上2回目の総選挙が実施され、野党はボイコットを呼びかけたが、投票率は52%で、国王派が過半数を占めた。1962年から1990年まで、修正を加えながらもパンチャーヤト制は維持された。
 1990年民主化運動が高まり、ゼネストが起こり、国内は騒然となった。ネパール会議派と統一左翼戦線(共産党など)が手を組み、ほかの組織も同調したといわれる。国王は政党側と妥協を図ったが、ついにパンチャーヤト制の廃止、複数政党制の復活、そのための憲法改正を声明し、ようやく平静になった。同年公布された新憲法は、主権在民、立憲君主制、平等・自由などの基本的権利、二院制の議会、議院内閣制などを柱とし、国王は国家と国民の統合の象徴となったが、軍の統帥権や非常大権をもっていた。
 その後総選挙が実施されたが単独で過半数をとるものがなく、いくつかの組合せの連立内閣による不安定な政治情勢が続き、1996年ネパール共産党毛沢東(もうたくとう)主義派が王制打破を目ざして武装闘争を開始、広い地域がその勢力下となった。
 ギャネンドラ国王は2002年議会(下院)を解散、以降、自らの指名による組閣を繰り返し、2005年には直接統治によって混乱を打開しようとしたが、事態はますます混迷した。2006年、国民の抗議行動が広がるなかで、国王は解散した下院を復活させることを宣言。これにより新政府が発足し、2008年4月に行われた制憲議会選挙で共産党毛沢東主義派が第一党となり、制憲議会で連邦民主共和制への移行が宣言され、王制は廃止された。
 制憲議会の議席数は601で、比例代表枠335、小選挙区枠240、閣議指名枠26となっており、閣議指名枠には選出されなかった少数派グループの代表を含めるとされている。
 ネパールの外交は伝統的に南北二大勢力に偏らない中立政策をとってきた。古くは清(しん)への朝貢、イギリスとの友好関係、イギリスと組んでのインドへの牽制(けんせい)、1955年の国連加盟後は、中国と積極的外交を推進しながら、インドとも関係を保ち、非同盟政策、平和地帯構想など打ち出した。[高山龍三]

経済・産業

国内総生産(GDP)は81億ドル、1人当り国民総所得(GNI)290ドル(2006)はアジアのなかでも低い値を示す。農業生産は国内総生産の約40%を占め、人口の約70%が農業に従事している(2001年国勢調査)。耕地面積は国土の18%、牧草地を加えても30%で、ほかは森林か荒れ地である。大部分が自給農業で、主食である米はタライ地方や亜熱帯、暖温帯の中間山地低地部・盆地(1800メートル以下)でつくられる。ジュートは東部タライで生産され、その製品は輸出される。カトマンズ盆地ではモンスーン期に米、冬の乾期に小麦か野菜というように、集約的な農耕が行われる。山地の主作物はトウモロコシ、雑穀(シコクビエ)、豆類で、段々畑でつくられる。香料のカルダモンの生産は世界第5位である。農耕と牧畜は深く結び付き、家畜は耕作や輸送に使われ、その糞(ふん)は肥料に、乳および乳製品は重要な食料となる。家畜としては低地ではインドコブウシ(耕起、脱穀、運搬用)、水牛(乳、厩肥(きゅうひ)生産、食用)、山地では小形のウシ(耕起用)、高地ではウシとヤクの交配雑種のゾー(乳生産、耕起、運搬用)、ヤク(乳生産、運搬用のほか衣食住材料を提供)が飼われる。ほかにヤギ、ヒツジも乳(バター)、肉、皮、毛の生産のために広く飼われている。
 工業は未発達で、小規模工業を加えても工業生産は国内総生産の10%に満たない。農林産物加工、たとえば精米、タバコ、製材、精糖、ジュート製造工業や繊維産業などがおもなものである。工場はカトマンズ盆地と、東部、中部タライの都市に集中する。
 天然資源としては森林が国土の38%を占め、豊富な亜熱帯林がタライ平野からシワリク丘陵にかけてみられるが、未開発である。鉱産資源も調査が行われているが、企業的に有望なものは少ない。ただ自然条件からみて、潜在水力資源は莫大(ばくだい)なもので、水力開発の調査がなされている。またヒマラヤの大自然と歴史的文化財を有するこの国は、交通路と施設の開発によって世界の観光地となりつつある。通貨は国立銀行発行のネパール・ルピーで、1、2、5、10、20、50、100、500、1000ルピーの銀行券がある。[高山龍三]

社会・文化

1平方キロメートル当り192人という人口密度(2007)は、起伏の激しい国土としては高い値で、しかも人口は年率2%以上の割で増加している。地形にしたがって、人口密度の高いタライ平野(とくに東部)、次に高い中間山地、低い内陸タライ、もっとも希薄なヒマラヤ高地というように帯状に分布している。そのうちでも際だって人口稠密(ちゅうみつ)な所はカトマンズ盆地で、こことタライ地方に都市が集中している。中間山地からインドのシッキム州などへの人口流出も多い。ネパールには形質的、言語的に、また宗教、社会組織、風俗習慣からみて多彩な集団の共存がみられる。宗教に関していえば、ヒンドゥー教徒が80%いるが、この数字は山地民の相当部分がすでにヒンドゥー教化していることを物語る。しかし土着信仰や儀礼は残っており、重層信仰がみられる。仏教徒は全人口の10%、主としてカトマンズ周辺のネワール人の仏教徒と、ヒマラヤ高地のチベット仏教徒である。イスラム教徒は3.5%である。
 ネパール語を母語とする人は全人口のなかばを超え、共通語として全国的に普及している。大ざっぱにみて、ネパールの南半にコーカソイド系の人種、北半にモンゴロイド系の人種が住み、その母語はそれぞれインド・アーリア系諸語、チベット・ビルマ系諸語であるが、細かくみると複雑である。民族分布は高度起伏と対応している。タライ地方には先住民のタルーがいたが、今日ではビハール語、ベンガル語、ヒンディー語などの方言を話すインド人が居住し、山地からネパール人が移住した。ネパール語を母語とするバウン(ブラーマン)やチェットリ、タクール(クシャトリヤ)は、中間山地の低地に居住し、大部分は水田耕作を営み、少数の職人カーストと、カースト社会をもつ村落を形成する。その上方、中間山地の高地には、ヒマラヤ諸語を母語とする諸民族が畑作と牧畜を生業として居住する。カトマンズ盆地を挟んで東西の山地にタマン、東部山地にライ、リンブー、スヌワール、西部山地にマガル、グルン、タカリーの諸民族が住む。カトマンズ盆地の先住民はネワール人で、古くからインド文明の影響を受け独自の文化を育ててきた。さらにヒマラヤ高地にはチベット系の民族が住み、チベット語の方言を母語とし、麦作、牧畜、隊商交易をあわせた生業に従い、チベット仏教を信じている。学校教育は小学校5年、中学校3年、高校2年の5―3―2制となっており、教育に力を入れているが、義務教育となっていない。1970年では16.6%であった成人識字率は2001年には53.7%となった。大学はカトマンズを中心にトリブバン大学、プルバンチャル大学、ポカラ大学などの国立大学のほか、私学のカトマンズ大学などがある。新聞は日刊紙が58を数える。[高山龍三]

日本との関係

日本との貿易は、対日輸出額は約746万ドル、対日輸入額は約3617万ドル(2004)と、ネパールの大幅な入超となっている。日本人入国者数は、1999年には4万1070人を記録したが、治安面での不安から減少し、2005年には1万4478人となった。年間の国別入国者数では、インド、イギリス、アメリカに次ぐ。[高山龍三]
『石井溥編『もっと知りたいネパール』(1986・弘文堂) ▽石井溥編『暮らしがわかるアジア読本・ネパール』(1997・河出書房新社) ▽D・B・ビスタ著、田村真知子訳『ネパールの人びと』(1993・古今書店) ▽薬師義美著『新版・ヒマラヤ文献目録』(1994・白水社) ▽田村善次郎著『ネパール周遊紀行』(2004・武蔵野美術大学出版局) ▽小倉清子著『ネパール王制解体』(2007・日本放送出版協会) ▽清沢洋著『ネパール村人の暮らしと国際協力』(2008・社会評論社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ネパールの関連キーワードヒマラヤ山脈ヒマラヤヒマラヤシーダーヒマラヤ杉ヒマラヤ雪の下ヒマラヤンチベットヒマラヤ山塊ヒマラヤ熊HIMARAYAカードヒマラヤ岩塩風呂

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone

ネパールの関連情報