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パーラ朝 パーラちょうPāla

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

パーラ朝
パーラちょう
Pāla

インド北東部,現ビハール州とベンガル州地方を支配した王朝ハルシャバルダナの死後における混乱のなかから,8世紀なかば頃ガンジス下流域に興った。ゴーパーラがこの王朝の祖。次のダルマパーラ王のときに領土を広げ,西は中流域のカナウジまで征服した。しかしやがて南西のラーシュトラクータ朝にカナウジを奪われ,以後西方のプラティーハーラ朝と鼎立してともにカナウジを中心とする北インド中央部の争奪を繰返した。 11世紀に衰え,12世紀にはビハール州の小王国となり,同世紀後半に滅んだ。この王朝のもとでタントラ派の仏教 (密教) が栄え,多数の寺院が建てられ,密教美術が開花した。ことに尊像には多種多様な彫刻が施され,ナーランダ遺跡に見られるようにすぐれた作品が多い。

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世界大百科事典 第2版の解説

パーラちょう【パーラ朝 Pāla】

8世紀中ごろから12世紀までインドのベンガルを支配した王朝。ハルシャ・バルダナの没後の小国分裂の〈弱肉強食の混乱状態〉のとき,ゴーパーラGopāla(在位750ころ‐770ころ)がベンガルを統一して王位に就き,その子ダルマパーラDharmapāla(在位770ころ‐810ころ)はビハールを領域に加えカナウジまで進出して,インド最大の勢力となった。このときから西のプラティーハーラ朝,デカンのラーシュトラクータ朝と抗争してインドの覇権を争った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

パーラ朝
ぱーらちょう
Pla

インドの王朝。8世紀中葉から12世紀末葉にかけて、ガンジス川流域のビハール、ベンガル地方を支配した。後期グプタ朝滅亡後の同地方の混乱を救うために、750年ごろゴーパーラが選ばれて王位につき、王朝を創始した。次のダルマパーラは、北西方のプラティーハーラ朝、南西方のラーシュトラクータ朝を抑えてカナウジに進出し、王国の版図を拡大した。続く9世紀前半のディーバパーラも数々の勝利を収めたが、その後はプラティーハーラ朝の侵攻が激しく、11世紀初頭には南インドのチョーラ朝の侵入をも受けて勢力が衰退した。11世紀末に一時勢力を回復したが、12世紀中ごろまでにベンガル地方がセーナ朝の手に落ち、同末期にはムスリムの侵入をも受けて滅亡した。この王朝は仏教を保護し、ビクラマシーラに大きな僧院が建立されたが、仏教はヒンドゥー教シバ派の影響を受けた密教が行われ、ネパールとの交流も深まった。この時代、絵画、彫刻にも新しい様式が生み出され、しばしば妖艶(ようえん)な姿態で表される女性菩薩(ぼさつ)のターラー菩薩はその代表的なものである。[辛島 昇]

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世界大百科事典内のパーラ朝の言及

【インド美術】より

… 中世に入ると仏教の衰退にともなって,その彫刻もしだいに力を失い形式化したものが多くなる。8世紀以後は,パーラ朝支配下の東インドに限られ,ナーランダー,ボードガヤー,ラトナギリなどで最後の華をさかせた。なおこの時期にブロンズ彫刻が隆盛したことは特筆に値する。…

【仏像】より

… グプタ朝時代以後は仏教の衰退とともに表現もしだいに形式化し,力の充実した作品は少なくなる。しかしパーラ朝時代には密教が隆盛し,多面多臂像や忿怒像が生まれ,尊像の種類が格段に増加した。それにともなって図像が整備され,造像法が定式化した。…

※「パーラ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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