ヒュースケン(読み)ひゅーすけん(英語表記)Henry C. J. Heusken

精選版 日本国語大辞典 「ヒュースケン」の意味・読み・例文・類語

ヒュースケン

(Henry C. J. Heusken ヘンリー=C=J━) 幕末の駐日アメリカ公使館通訳オランダ人安政三年(一八五六)赴任し、万延元年一二月五日(一八六一年一月一五日に当たる)江戸、麻布中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士に襲われて死亡。(一八三二‐六一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒュースケン」の意味・わかりやすい解説

ヒュースケン
ひゅーすけん
Henry C. J. Heusken
(1832―1861)

幕末、駐日アメリカ公使館通訳官を勤めたオランダ人。1832年1月20日アムステルダムに生まれ、53年アメリカに渡り、55年駐日総領事ハリス随員に任命され、ペナンで総領事と合流シャムとの通商条約締結ののち、56年8月21日(安政3年7月22日)下田(しもだ)に着任オランダ語、英語、フランス語に加えて日本語を修得、58年日米修好通商条約締結に成功、ついで日英修好通商条約締結に協力、59年6月(和暦5月)に江戸麻布(あざぶ)の善福寺に移り、60年(安政7)プロシアとの日普(にっぷ)修好通商条約締結にも協力したが、61年1月15日(万延元年12月5日)夜、攘夷(じょうい)派の薩摩(さつま)藩士伊牟田尚平(いむたしょうへい)らに襲撃され、翌日死去した。幕府はその母に扶助料・慰謝料として1万ドルを支払った。著書に『The Japan Diary, 1855―1861』New Brunswick, 1964(邦訳『日本日記』)がある。

金井 圓]

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朝日日本歴史人物事典 「ヒュースケン」の解説

ヒュースケン

没年:万延1.12.5(1861.1.15)
生年:1832.1.20
幕末のアメリカの外交官。オランダのアムステルダムに商人の子として生まれる。16歳のとき寄宿学校をやめて父の家業を継ぐが,父の死去に伴い1853年アメリカのニューヨークに渡る。55年,初代駐日総領事ハリスに同行する通訳官に採用され,同年10月ニューヨークを出発,安政3年7月21日(1856年8月21日)下田に着く。ハリスの片腕として外交折衝には常に同席し,同5年6月19日(1858年7月29日)の日米修好通商条約調印に功があった。イギリス,プロシャの対日交渉にも協力したが,万延1(1860)年末,江戸赤羽にあったプロシャ代表部からの帰途,薩摩藩士に襲われ,翌日死去した。<著作>『ヒュースケン日本日記』(青木枝朗訳)

(内海孝)

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百科事典マイペディア 「ヒュースケン」の意味・わかりやすい解説

ヒュースケン

幕末の駐日米国公使館通訳官。オランダ人。1856年ハリスの通訳官として伊豆(いず)下田にきた。蘭・英・独・仏語に通じた彼は日米修好通商条約交渉などでハリスを補佐。1861年1月15日(万延1年12月5日)江戸芝薪(まき)河岸付近で攘夷派の薩摩(さつま)藩士伊牟田尚平らに襲われ,翌日死亡。のち外交問題に発展。
→関連項目安藤信正

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヒュースケン」の意味・わかりやすい解説

ヒュースケン
Heusken, Henry C.J.

[生]1832.1.20. オランダ,アムステルダム
[没]万延2 (1861).1.16. 江戸
幕末に活躍したオランダ人の駐日アメリカ公使館通訳官。安政2(1855)年駐日アメリカ総領事タウンセンド・ハリスに随行。シャムとの開国通商条約締結に従事。英語,オランダ語,フランス語などに通じ,日本着任後は日本語を修得してハリスの外交活動を助けた。同 5年8月,日英修好通商条約締結の際に通訳の労をとり,また同 7年日普修好通商条約締結の際にも通訳として協力。万延2(1861)年1月15日夜,攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平らに襲撃され,翌 16日死去した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ヒュースケン」の解説

ヒュースケン
Hendrik Conrad Joannes Heusken

1832.1.20~60.12.6

駐日米国総領事館・公使館通訳。オランダ人。1853年アメリカに移住。55年駐日総領事に任命されたハリスの通訳となり,56年(安政3)ハリスとともに下田に来航。日米修好通商条約締結などでハリスを補佐して活躍した。イギリス使節やプロイセン使節の通商条約締結に際してもオランダ語通訳として協力。61年1月15日(万延元年12月5日)攘夷派の鹿児島藩士らに襲われ,翌未明死亡。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ヒュースケン」の解説

ヒュースケン Heusken, Henricus Conradus Joannes

1832-1861 オランダの通訳。
1832年1月20日生まれ。駐日アメリカ総領事ハリスに同行して安政3年(1856)下田に上陸。5年日米修好通商条約の締結に活躍し,イギリス,プロイセンの対日条約締結にも協力した。万延元年12月5日江戸で尊攘(そんじょう)派の鹿児島藩士におそわれ,翌日死亡。28歳。「日本日記」がのこる。アムステルダム出身。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ヒュースケン」の解説

ヒュースケン
Hendrik C. J. Heusken

1832〜61
幕末,駐日アメリカ公使館通訳として活躍したオランダ人
1856年アメリカ総領事ハリスに従い来日。対日交渉に活躍しイギリス・プロシアの対日条約締結に際し通訳をつとめたが,'60年12月(新暦では'61年)攘夷派の浪人に暗殺された。日本滞在記に“Memoires de Voyage”がある。

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367日誕生日大事典 「ヒュースケン」の解説

ヒュースケン

生年月日:1832年1月20日
オランダ人の駐日アメリカ公使館通訳官
1861年没

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