ファイサル

デジタル大辞泉 「ファイサル」の意味・読み・例文・類語

ファイサル(Fayṣal ibn ‘Abd al-‘Azīz)

[1906~1975]サウジアラビア第3代国王在位1964~1975。イブン=サウードの子。国家近代化推進イスラム同盟結成提唱おいに暗殺された。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ファイサル」の意味・読み・例文・類語

ファイサル

  1. ( Fayṣal bn. ‘Abd al-‘Azis アブドゥル=アジズ=ブン━ ) サウジアラビア第三代国王。初代国王アブドゥル=アジズ(イブン=サウド)の第三子。第二代サウド王の実弟。一九六四年即位。国の近代化と合理化に努力。また、親米路線を推進し、アラブ世界の団結を図ろうと試みたが、王宮内で甥に暗殺された。(一九〇六‐七五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ファイサル」の意味・わかりやすい解説

ファイサル

サウジアラビアの国王。在位1964年−1975年。王国の建設者アブド・アルアジーズ・ブン・サウードの第3子としてリヤドに生まれた。1927年ヒジャーズ知事,1928年ウラマーイスラムの学者・宗教指導者)会議議長,1930年外務大臣を務める。1953年父王の死で異母兄のサウードが即位すると,次期王位継承者となり,副首相兼外相に任命された。経済情勢が悪化する中,サウード王との対立が表面化し,1964年ウラマー会議の決議によりサウードが退位,ファイサルが王位につく。財政の再建,教育・通信・運輸の近代化に努め,外交では親米路線をとった。1962年のイエメン内戦で王政派についたサウジアラビアは,共和派を支援するエジプトと対立関係にあったが,1966年にファイサルがイスラム同盟の結成を提唱すると,両国関係はさらに悪化した。しかし1967年の第3次中東戦争勃発により対立を解消,対イスラエル戦で一致団結した。1969年,ファイサルは第1回イスラム諸国首脳会議をモロッコで開催,イスラム世界の盟主の立場を鮮明にし,1973年第4次中東戦争が起きると,アラブ産油国をリードして生産削減や輸出禁止などで石油価格を引き上げ,石油危機をもたらしたほか,西側諸国に衝撃を与えた。ファイサル治下で今日のサウジアラビアの基礎が固まったが,1975年,リヤドの宮廷で甥に暗殺された。
→関連項目サウジアラビアファハド

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ファイサル」の意味・わかりやすい解説

ファイサル
ふぁいさる
Fayal bn.‘Abd al-‘Azīz
(1905―1975)

サウジアラビアの第3代国王(在位1964~1975)。初代国王アブドゥル・アジズ(イブン・サウド)の息子。第2代サウド王の実弟。幼少時から父の統一国家建設事業に参加する。1927年ヒジャーズ州副王に就任する。1928年父王の対外関係業務の処理を行う事実上の外相となる。1953年父王の死により兄サウドが国王に即位すると、次期王位継承者に指名され、副首相兼外相に就任した。1950年代末サウド王の失政によってもたらされた財政危機を再建する過程で政治上の実権を掌握し、1964年11月兄王にかわって第3代国王に即位した。その後、イスラム国家としての近代化を図るとともに親米・反共路線を推進した。対アラブ政策では穏健派の主導権確立を図り、1967年の第三次中東戦争後は親米型の「カイロ・リヤド枢軸」を成立させた。1973年の第四次中東戦争では石油戦略を主導し、アラブの団結を図ろうと試みた。1975年3月25日、甥(おい)の凶弾に倒れた。

[木村喜博]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ファイサル」の意味・わかりやすい解説

ファイサル
Fayṣal b.`Abd al-`Azīz
生没年:1906-75

サウジアラビア国王。在位1964-75年。王国の建設者アブド・アルアジーズ・ブン・サウードの第3子。1927年ヒジャーズ知事,28年ウラマー会議議長,対外交渉も担当した。53年父の死とともに兄のサウードが即位すると,次期王位継承者に指名され,副首相兼外相となった。サウード王との対立が深刻化するなかで,王族の信を集め62年王の政務代行,64年ウラマー会議の決議を得てサウードを退位させ即位した。財政再建に努め,保守勢力の抵抗を排して教育・通信・運輸の近代化を推進した。外交上は一貫して親米の立場をとり,62年以降イエメン内戦に介入してナーセルの社会主義路線と軍事的にも対決した。66年イスラム同盟の結成を提唱し,67年の六月戦争後は対エジプト関係を改善しつつ,69年エルサレム問題でイスラム諸国会議開催の主導権をとった。73年の十月戦争に際しては石油戦略発動に中心的役割を演じたが,やがて甥に暗殺された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ファイサル」の意味・わかりやすい解説

ファイサル
Faisal, ibn Abdel Aziz ibn Abdul-Rahman al Faisal al Saud

[生]1905/1906. リヤード
[没]1975.3.25. リヤード
サウジアラビア国王 (在位 1964~75) 。初代イブン・サウード国王の息子で,2代目サウード国王の弟。 1926年ヒジャーズ太守,30年外相,45年国連サウジアラビア代表,のち国連大使をつとめ,53年兄の即位後皇太子となり,54年首相兼外相に就任。 58年実権を譲られ,強力な経済政策を進めて国家を危機から救ったが,サウード国王との関係が悪化,60年 12月辞任した。 62年 11月首相兼外相に再任され,経済,社会,行政改革,奴隷制の廃止などを推進,64年 11月国王となったが,75年甥の王子によって暗殺された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ファイサル」の解説

ファイサル(1世)
Fayṣal Ⅰ bn Ḥusayn

1885〜1933
イラク国王
ハーシム家のフサインの息子。1916年よりオスマン帝国に対するアラブ人の反乱を起こし,18年ダマスクス入城。1920年にアラブ−シリア国民会議によりシリア王国を樹立して王を名乗るが,フランス軍がダマスクスに侵攻したことで崩壊した。その後イギリスの援助を受けて1921年イラク国王となり(在位1921〜33),25年には憲法を発布,32年には国際連盟に加盟。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のファイサルの言及

【ファイサル[1世]】より

…33年アッシリア人(ネストリウス派キリスト教徒)弾圧問題をめぐる不評の中で没した。孫のファイサル2世(1935‐58,在位1939‐58)は,摂政のアブド・アルイラーフとともに,58年イラク革命により処刑された。【板垣 雄三】。…

【サウジアラビア】より

…しかし,スエズ運河閉鎖による石油収入激減に対応できず,サウードは57年訪米して,石油開発で協力関係にあるアメリカから財政援助を受けるにおよんで,しだいにナーセル主義主導のエジプトから離反した。財政悪化を含め,統治・管理能力の欠如を暴露したサウードは,王族集団の信を失い,58年ファイサル皇太子を首相として大幅な権限を委譲した。サウードが旧体制を代表したのに対し,改革推進派のファイサルは国際通貨基金(IMF)の勧告に基づいて財政改革を断行,対エジプト関係も修復したが,サウードとの関係が悪化したため,またもサウード親政が復活した。…

【パン・イスラム主義】より

…ナーセル政権下のエジプトでは,ムスリム同胞団を禁圧しつつも,アズハル大学を通じて世界のイスラム教徒への働きかけがなされた。61年マレーシアのアブドゥル・ラーマンはイスラム諸国連盟を提唱し,66年サウジアラビアのファイサル国王はヨルダン,イラン,チュニジアなどと結んでイスラム同盟の結成を呼びかけた。後者のパン・イスラム主義は,69年イスラム諸国会議(1997年現在,参加国はPLOを含め55)として実現された。…

※「ファイサル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android