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サウジアラビアの第3代国王(在位1964~1975)。初代国王アブドゥル・アジズ(イブン・サウド)の息子。第2代サウド王の実弟。幼少時から父の統一国家建設事業に参加する。1927年ヒジャーズ州副王に就任する。1928年父王の対外関係業務の処理を行う事実上の外相となる。1953年父王の死により兄サウドが国王に即位すると、次期王位継承者に指名され、副首相兼外相に就任した。1950年代末サウド王の失政によってもたらされた財政危機を再建する過程で政治上の実権を掌握し、1964年11月兄王にかわって第3代国王に即位した。その後、イスラム国家としての近代化を図るとともに親米・反共路線を推進した。対アラブ政策では穏健派の主導権確立を図り、1967年の第三次中東戦争後は親米型の「カイロ・リヤド枢軸」を成立させた。1973年の第四次中東戦争では石油戦略を主導し、アラブの団結を図ろうと試みた。1975年3月25日、甥(おい)の凶弾に倒れた。
[木村喜博]
サウジアラビア国王。在位1964-75年。王国の建設者アブド・アルアジーズ・ブン・サウードの第3子。1927年ヒジャーズ知事,28年ウラマー会議議長,対外交渉も担当した。53年父の死とともに兄のサウードが即位すると,次期王位継承者に指名され,副首相兼外相となった。サウード王との対立が深刻化するなかで,王族の信を集め62年王の政務代行,64年ウラマー会議の決議を得てサウードを退位させ即位した。財政再建に努め,保守勢力の抵抗を排して教育・通信・運輸の近代化を推進した。外交上は一貫して親米の立場をとり,62年以降イエメン内戦に介入してナーセルの社会主義路線と軍事的にも対決した。66年イスラム同盟の結成を提唱し,67年の六月戦争後は対エジプト関係を改善しつつ,69年エルサレム問題でイスラム諸国会議開催の主導権をとった。73年の十月戦争に際しては石油戦略発動に中心的役割を演じたが,やがて甥に暗殺された。
執筆者:板垣 雄三
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…33年アッシリア人(ネストリウス派キリスト教徒)弾圧問題をめぐる不評の中で没した。孫のファイサル2世(1935‐58,在位1939‐58)は,摂政のアブド・アルイラーフとともに,58年イラク革命により処刑された。【板垣 雄三】。…
…しかし,スエズ運河閉鎖による石油収入激減に対応できず,サウードは57年訪米して,石油開発で協力関係にあるアメリカから財政援助を受けるにおよんで,しだいにナーセル主義主導のエジプトから離反した。財政悪化を含め,統治・管理能力の欠如を暴露したサウードは,王族集団の信を失い,58年ファイサル皇太子を首相として大幅な権限を委譲した。サウードが旧体制を代表したのに対し,改革推進派のファイサルは国際通貨基金(IMF)の勧告に基づいて財政改革を断行,対エジプト関係も修復したが,サウードとの関係が悪化したため,またもサウード親政が復活した。…
…ナーセル政権下のエジプトでは,ムスリム同胞団を禁圧しつつも,アズハル大学を通じて世界のイスラム教徒への働きかけがなされた。61年マレーシアのアブドゥル・ラーマンはイスラム諸国連盟を提唱し,66年サウジアラビアのファイサル国王はヨルダン,イラン,チュニジアなどと結んでイスラム同盟の結成を呼びかけた。後者のパン・イスラム主義は,69年イスラム諸国会議(1997年現在,参加国はPLOを含め55)として実現された。…
※「ファイサル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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