翻訳|Ferdinand
ルーマニア王(在位1914~27)。プロイセンのレオポルト王子の第2子で、ルーマニアのカロル1世の甥(おい)。1889年にルーマニアに招かれて皇太子となり、軍の近代化に努め、バルカン戦争ではルーマニア軍総司令官を務めた。1914年の第一次世界大戦開始直前に王位につき、国内世論に従って連合国側についたので、生家のホーエンツォレルン家から絶縁を宣告された。ブカレストが中央同盟側に占領されると、モルダビアに逃れて抗戦を指揮した。前線を視察して兵士の間の革命的気運に気づき、17年4月に農地改革を約束した。戦争末期に彼のもとで「大ルーマニア」の夢が実現した。
[木戸 蓊]
…その歴史は1569年,メディチ家のコジモ1世が大公に叙された年に始まる。彼は行政・法律面で統一のとれた国家の建設に努力し,ついでフェルディナンド1世の下で税制改革が行われ,商業・農業が発展して,大公国は繁栄するが,以後国力は衰微の一途をたどった。ことに商業が衰え,資本は土地に集中投下され,農業国と化した。…
…69年,公国はトスカナ大公国に昇格するが,後継者フランチェスコ1世Francesco I de’ M.は化学・物理にしか興味がなく,その治世下で財政は乱れ,国力は著しく低下する。次代のフェルディナンド1世Ferdinando I de’ M.は進歩的政策をとり,税制改革,農業商業の振興に努め,大公国は自由と活気を取り戻し,その存在はヨーロッパ列強の一つと認められた。しかし,これはメディチ家の栄光の最後の輝きであった。…
… スペイン継承戦争が始まるとナポリ王国はオーストリアの支配下に入ったが(1707),ポーランド継承戦争の結果,スペイン王フェリペ5世(ブルボン家)の子カルロ7世がナポリおよびシチリア王に即位(1734),トスカナの法律家タヌッチBernardo Tanucci(1689‐1782)を宰相に起用して啓蒙主義的な政策を行った。カルロ7世がスペイン王(カルロス3世)に即位(1759)した後を継いだフェルディナンド4世Ferdinando IVの時代には,同じくタヌッチの指導下でP.ジャンノーネの政治思想やA.ジェノベーゼの経済思想の影響を受けた政策が実行された。それは反貴族・反教権的な指向をもち,1768年にはイエズス会士の追放が行われた。…
…ナポリ王フェルディナンド1世の別名。在位1458‐94年。…
…最初の重大な改革は農地改革であった。すでに大戦中にフェルディナンド1世Ferdinand I(在位1914‐27)は農民に土地と自由とを約束していたが,1918年以後いくつかの布告が出されたのち,21年に最終的に農地改革法が制定・実施された。これは同時期に行われた他の東欧諸国の農地改革に比べてもより徹底しており,地主階級に課した負担も最も大きかったと評価されており,100ha以上の農地の総面積の66.2%にあたる612万5000haの収用と230万9000人の農民への分与が予定されていた。…
… スペイン継承戦争が始まるとナポリ王国はオーストリアの支配下に入ったが(1707),ポーランド継承戦争の結果,スペイン王フェリペ5世(ブルボン家)の子カルロ7世がナポリおよびシチリア王に即位(1734),トスカナの法律家タヌッチBernardo Tanucci(1689‐1782)を宰相に起用して啓蒙主義的な政策を行った。カルロ7世がスペイン王(カルロス3世)に即位(1759)した後を継いだフェルディナンド4世Ferdinando IVの時代には,同じくタヌッチの指導下でP.ジャンノーネの政治思想やA.ジェノベーゼの経済思想の影響を受けた政策が実行された。それは反貴族・反教権的な指向をもち,1768年にはイエズス会士の追放が行われた。…
※「フェルディナンド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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