フェルナンド1世(英語表記)Fernando Ⅰ

改訂新版 世界大百科事典 「フェルナンド1世」の意味・わかりやすい解説

フェルナンド[1世]
Fernando Ⅰ
生没年:1380-1416

アラゴントラスタマラ朝初代の王。在位1412-16年。カスティリャ王族で,カスティリャ王フアン2世の摂政職在任中にグラナダ王国からアンテケラを奪回したところから,〈アンテケラのフェルナンドFernando de Antequera〉と通称される。王家断絶後のアラゴン連合王国代表者会議で王位継承者に選ばれて即位した。情勢判断の才,決断力,忍耐,指導性など国王としての資質に恵まれ,対外政策ではシチリアの反乱制圧などの成果を挙げたが,内政面ではその絶対主義的姿勢から特にカタルニャ議会と激しく対立した。彼の息子たちは〈アラゴンの王子たち〉と呼ばれ,父王から継承した権益の数々をカスティリャ国内にもっていた。
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フェルナンド[1世]
Fernando Ⅰ
生没年:1016-65

初代カスティリャ王。在位1035-65年。ナバラ王サンチョ3世(大王)の次男で,即位後まもなくレオン王をタマロンの戦(1037)で破って同国を合併,新興カスティリャ王国の地位を固めた。さらに1054年には兄のナバラ王ガルシア3世をアタプエルカに破って東部の旧領土を回復した。この後,今日のポルトガル方面でアル・アンダルスイスラム・スペイン)に対する国土回復戦争に取り組みコインブラに再入植,一時はドゥエロ川に押し上げられた国境線を再びモンデゴ川に押し戻した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フェルナンド1世」の意味・わかりやすい解説

フェルナンド1世(端麗王)
フェルナンドいっせい[たんれいおう]
Fernando I, o Formoso

[生]1345.10.31. コインブラ
[没]1383.10.22. リスボン
ポルトガル王 (在位 1367~83) 。ポルトガル・ブルゴーニュ朝のペドロ1世 (厳格王)の長男。 1369年トラスタマラ伯エンリケ (のちのカスティリアエンリケ2世 ) が異母弟のカスティリア=レオン王ペドロ1世 (残虐王)を暗殺して王位を簒奪すると,王位請求者の一人としてエンリケと悲惨な戦争に突入。 72年義兄であるイングランドのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと同盟した。しかし 82年娘ベアトリスをエンリケの子フアン1世にとつがせた。フェルナンドの死後,フアンがポルトガル王位を請求したが,ポルトガルはアビス騎士団長ジョアン (→ジョアン1世〈名王〉 ) を即位させたため,ブルゴーニュ朝は断絶した。

フェルナンド1世
フェルナンドいっせい
Fernando I

[生]1379. メディナデルカンポ
[没]1416.4.2. イグアラダ
アラゴン王 (在位 1412~16) 。カスティリア王フアン1世とアラゴン王ペドロ4世 (儀礼王) の娘レオノルの次男。甥のカスティリア王フアン2世が成年に達するまで 1406年以来摂政をつとめた。その間,アンテケラの難攻不落といわれたグラナダ人の要塞を占領して国土回復運動のうえで有力な勝利を得た (10) 。アラゴン王マルティン1世の死後,フェルナンドはカタルニャ人の強い反対を押切ってアラゴン王となった。一方アラゴン王によるシチリア支配を確固たるものとし,これ以後スペイン継承戦争のときまで約 300年間アラゴン (のちにスペイン) 王位とシチリア王位は1つに合体された。また彼はアラゴンの対立教皇ベネディクト 13世に対する支持を撤回し,教会大分裂の終結に努力した。

フェルナンド1世(大王)
フェルナンドいっせい[だいおう]
Fernando I, el Grande

[生]1016/1018
[没]1065.12.27. レオン
カスティリア王 (在位 1035~65) ,レオン王 (在位 37~65) 。ナバラ (パンプロナ) 王サンチョ3世 (大王)の子。父王の死によりカスティリア王となる。サンチャ (レオン王ベルムド3世の妹,女相続人) と結婚。ベルムドを敗死させレオン王となり,皇帝を名のった (39) 。彼の弟でナバラ王のガルシア・サンチェス3世は父からカスティリア領の一部を与えられていたが,フェルナンドはその領土の回復をはかり,ガルシアを殺して,ナバラを併合 (54) ,またムーア人からコインブラを征服 (64) ,トレド,セビリアなどのイスラム小王国を朝貢国とした。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「フェルナンド1世」の解説

フェルナンド1世(フェルナンドいっせい)
Fernando Ⅰ

1016?~65(在位1037~65)

ナバラ国王サンチョ3世の第2子。1035年に初代カスティリャ国王を称し,37年にレオン王国を併合してカスティリャ‐レオン国王となる。ナバラ西部を併合したのち,ポルトガル方面で征服活動を展開,ドゥエロ川南岸一帯を征服した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のフェルナンド1世の言及

【カスティリャ王国】より

…10世紀に入るとレオン王国の衰微,戦乱下の辺境という事情に起因する政治・法律・社会・文化面での特殊性,優れた政治的才覚をそなえたフェルナン・ゴンサレス伯の登場等を要因に内部統一が達成され,レオン王への従属関係はほとんど有名無実となっていった。11世紀前半,後ウマイヤ朝が崩壊してアル・アンダルスが分裂に陥る一方,カスティリャはフェルナンド1世の下にレオンを合併する形で王国となった(1037)。この後,両国は王権による連合と離反を繰り返しながらも再入植運動の進行,移牧経済の発展,社会条件の接近等からしだいに親和の度を深め,1230年フェルナンド3世によって最終的統合に達した。…

【トラスタマラ朝】より

…1369年初頭,カスティリャ王アルフォンソ11世の庶子でトラスタマラ伯エンリケは,父王を継いだ嫡子ペドロ1世をその手で刺殺,エンリケ2世Enrique IIとして王位に就き,新たにトラスタマラ朝を開いた。1410年,マルティン1世の死によってアラゴン連合王国は王家が断絶,12年にカスペCaspeで開かれた代表者会議は,カスティリャ王フアン1世の王子で通称フェルナンド・デ・アンテケーラFernando de Antequera(フェルナンド1世)を新王に選出した。こうしてカスティリャとアラゴン連合王国は同一王朝の統治下に入ったが,このことは約半世紀後のカトリック両王による両国の連合成立を促す要素のひとつとなった。…

※「フェルナンド1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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