改訂新版 世界大百科事典 「フランス領赤道アフリカ」の意味・わかりやすい解説
フランス領赤道アフリカ (フランスりょうせきどうアフリカ)
Afrique équatoriale française
中部アフリカに位置するコンゴ,ガボン,中央アフリカ,チャドのフランス語圏4ヵ国が,1910-60年,一元的な統治のもとにおかれていた植民地時代の名称。略称はAEF。1910年,三つのフランス領植民地ガボン,中部コンゴ(現,コンゴ),ウバンギ・シャリ・チャド(1914年,チャドはウバンギ・シャリ(現,中央アフリカ)から分離して独立の植民地行政単位となった)は,中部コンゴのブラザビル(中部コンゴの主都はポアント・ノアールにあった)に設けられたフランス総督府によって一元的に統治されることになり,フランス領赤道アフリカが成立した。その領土面積は250万km2,人口は440万(1950)であったが,ヨーロッパ人の入植者は少なく,2万人程度にとどまっていた。この地域の植民地開発は,当初,40社にのぼるコンセッション会社の手にゆだねられた。これらの会社に,30年間の期限つきで独占的開発権を譲渡された領土(コンセッション)の面積は65万km2に達した。しかし,この開発方式は企業の収益性を優先するあまり,アフリカ人住民の人権を無視したいわゆる植民地スキャンダルを頻発させ,1930年,コンセッションは全面的に廃止された。
第2次世界大戦中,ヨーロッパ戦線における宗主国フランスの敗北にもかかわらず,フランス領赤道アフリカは,第1次大戦後にフランス委任統治領となっていたカメルーンとともに,ド・ゴール将軍の率いる自由フランス側にとどまり,連合軍の北アフリカ・中東作戦の中継基地として重要な役割を果たした。このことは第2次大戦後のフランス植民地体制の変革の一つの契機となった。1960年,四つの植民地はそれぞれ別個の国として独立した。しかし独立後も4ヵ国は,同じフランスの信託統治領であったカメルーン(1960独立)を加えて,中部アフリカ経済・関税同盟(UDEAC)を結成し,通貨はカメルーンの首都ヤウンデに設けられた中部アフリカ諸国銀行(BEAC)を発券銀行として,植民地時代からの共通通貨であるCFAフランを使用するなど,経済的には緊密な関係を保持している。
執筆者:原口 武彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報