コンゴ共和国(読み)こんごきょうわこく(英語表記)République du Congo

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンゴ共和国」の意味・わかりやすい解説

コンゴ共和国
こんごきょうわこく
République du Congo

アフリカ中西部、赤道にまたがる国。北は中央アフリカカメルーン、西はガボン、東と南はコンゴ民主共和国(旧ザイール)に接し、南西部は大西洋に面している。面積34万2000平方キロメートル、人口302万(2000推計)、369万7490(2007センサス)。首都ブラザビルは、コンゴ川を挟んで、コンゴ民主共和国の首都キンシャサと向かい合う。サハラ以南のアフリカで生まれた最初の人民共和国で、中国や旧ソ連との結び付きが強かったが、1991年に国名をコンゴ共和国に改めた。経済的には、かつての宗主国フランスとの関係が深い。

[赤阪 賢]

自然

国土の大部分コンゴ盆地の北西部を占める。東部はコンゴ川とウバンギ川沖積平野を形成して湿地が多い。この平野は西に向かって高度を増し、標高900メートルの高原となる。西部は複雑な地形をなし、ニアリ川の河谷が開け、海岸平野との間にマヨンベ丘陵が走る。

 気候は赤道直下のため高温多湿の典型的な熱帯雨林気候である。年降水量は1000~2000ミリメートルで、北へ行くほど雨量が多くなる。赤道の北側は熱帯降雨林だが、南部はサバナ景観を示す。首都ブラザビルの年平均気温は25.6℃、年降水量は1371ミリメートルで、6~8月の3か月が乾期である。海岸平野はベンゲラ海流の影響を受けるためやや涼しく、乾期が長くサバナ地帯となっている。

[赤阪 賢]

地誌

人口密度は1平方キロメートル当り約9人で希薄であるが、さらに人口の75%が、ポアント・ノアールとブラザビルの間の南部サバナ地帯に集中している。とくに首都ブラザビルの人口は約94万(1995)で、急速に増加している。ついで、大西洋に面した港町のポアント・ノアールが人口約58万、それに続くルオボモは人口約8万、ヌカイは人口4万程度の小都市である。村落からの人口流入が激化し、人口の60が都市居住者となっている。

 コンゴ川下流は急流となっており、船の航行は不能だが、ブラザビルのマレボ湖から上流は、ウバンギ川を含めて2400キロメートルにわたり航行可能で、交通の大動脈となっている。また、ブラザビルと大西洋岸のポアント・ノアール港を結ぶコンゴ大西洋鉄道が敷設されている。この鉄道に沿ってプランテーションの開発や都市化が進んでいる。これらの交通の動脈によって、コンゴは植民地時代から、大西洋と内陸とを結ぶ中継貿易で経済的に発展した。

[赤阪 賢]

歴史

古代にはこの地は紀元前後に、ネグリロ系先住民を追うバントゥー系諸族の北方からの移住の波に洗われた。15世紀末にポルトガルの航海者がコンゴ川の河口地域に到達したころ、ロアンゴ王国、カコンゴ王国が形成されていた。これらはコンゴ王国の属国であったが、ヨーロッパ商人の奴隷貿易により繁栄した。従来、沿岸の王国と内陸の首長との間には、塩と農産物の交易関係が結ばれていた。奴隷貿易もこのネットワークに基づき、ヨーロッパの奴隷船は沿岸の港で待機して内陸の奴隷を受け取った。18世紀には沿岸に多数の商港が開かれ小王国が形成された。コンゴ(現コンゴ共和国)、ザイール(現コンゴ民主共和国)、アンゴラの沿岸から搬出された奴隷は1350万人に及ぶ。1870年フランス人の探検家ド・ブラザがコンゴ川(ザイール川)流域を探検し、スタンリー・プールに到達して、バテケの首長と協定を結び、1882年にはこれを根拠にコンゴ川右岸にフランス領コンゴ植民地を建設した。その後、1920年にフランス領赤道アフリカが形成され、ブラザビルが首都に定められた。第二次世界大戦後、コンゴはフランス海外領に昇格し、1958年にはフランス共同体内の自治共和国となり、1960年8月15日コンゴ共和国として独立した。

[赤阪 賢]

政治

独立時には、親欧米色の強いフルベール・ユールーFlubert Youlou(1917―1972)が初代の大統領に選出された。しかし、1963年8月のクーデターで大統領ユールーは追放され、アルフォンス・マサンバ・デバAlphonse Massamba-Débat(1921―1977)が大統領に就任した。彼はコンゴ革命民族運動(MNR)の一党支配下で社会主義化を推進し、ソ連や中国との国交を樹立し、対欧米関係は悪化した。1968年デバは大統領を辞任し、北部出身のマリアン・ヌグアビMarien Ngouabi(1938―1977)が軍部を背景に実権を握った。彼は1969年に大統領に就任、マルクス・レーニン主義を主唱するコンゴ労働党PCT)を結成し、新憲法を制定、国名をコンゴ人民共和国と改めた。その後も政情不安が続き、1970年3月のクーデター未遂事件、1971年12月のストライキを契機に、ヌグアビは軍を直接掌握し独裁体制を強化した。しかし1977年3月ヌグアビは暗殺され、大佐であったオパンゴJoachim Yhombi-Opango(1939―2020)が実権を握った。1979年3月国防相のドニ・サスヌゲソDenis Sassou-Nguesso(1943― )が新大統領に就任したが、1980年代なかばの石油価格の低下の影響を受け、経済政策の失敗を招いた。1990年9月には賃上げ要求のストライキが全国に波及し、長年のPCTの一党独裁への批判が噴出した。1992年に複数政党制と議会の二院制が導入され、大統領選挙の結果、パンアフリカ社会民主主義連合(UPADS)党のパスカル・リスーバPascal Lissouba(1931―2020)が選出された。1993年5月の総選挙をきっかけに与野党間の対立が武力衝突にエスカレートしたが、翌年1月に停戦協定が成立した。各政党の抱える民兵の武装解除や軍・警察への編入など、和平の努力がなされたが、1996年2月の元民兵の暴動に続き、1997年には、ふたたび与野党の支持者間で武力衝突が再燃した。1997年6月、7月に予定されていた大統領選をめぐってリスーバ大統領派とサスヌゲソ前大統領派の間で内戦勃発(ぼっぱつ)。サスヌゲソ派はアンゴラ軍の支援を受け、同年10月首都ブラザビルを中心に全土を制圧した。大統領のリスーバら政府有力者は国外に脱出した。同月、サスヌゲソはふたたび大統領に就任した。

[赤阪 賢]

経済・産業

コンゴの経済は石油など恵まれた鉱物資源の開発に依存している。国土は農地が少なく、農村人口も都市への人口流入に伴い減少している。農業はキャッサバマニオク)、プランテン・バナナ(料理用バナナ)、トウモロコシなどの主食用作物のほか、コーヒー、カカオ、サトウキビなどの商品作物を栽培している。しかしいずれも生産量は少ないため、都市への食糧供給が追い付かず、食糧は輸入に頼っている。国土の60%近くが森林のため、林業は、石油の発見以前は、輸出の70%を占める重要産業であった。1970年代の初めには、リンバ材、オクメ材、マホガニーなどの生産は年間83万立方メートルに及んだが、海岸に近いマヨンベ丘陵などでは乱伐がたたり、産出額は伸び悩んでいる。

 1960年代より石油の開発が進み、1969年にはポアント・ノアール沖の海底油田が発見された。以後石油生産量は急増して、1995年には1033キロリットルに達し、国家収入の50%以上を占めるに至っている。石油の埋蔵量は2億3000万キロリットルと推定されている。ポアント・ノアールには石油精製所も完成し、1985年には500万トンが処理可能となった。その他の地下資源も豊富で、ポアント・ノアール近郊のサンポールのカリウム鉱山は世界有数の生産量を誇り、かつては国の輸出総額の15%を占めた。そのほか、亜鉛、銅、鉛、金が南部のムファティ鉱山から産出される。

 貿易収支は、輸出が19億3600万ドル(1997推定)で、そのうち石油が85%を占める。輸入は9億2500万ドルである。輸出相手国はアメリカとフランスでほぼなかばを占め、輸入相手国はおもにフランスである。

[赤阪 賢]

社会・文化

住民はおもにバントゥー系の農耕民で、北からサンガ、バンギ、バテケ、ビリ、バコンゴなど15の民族グループに分かれる。そのうち、南部のバコンゴ(40万人)がもっとも多く、ついでスタンリー・プール近くのバテケ(19万人)、北部のバンギ(14万人)などが比較的に大きな人口をもっている。さらに隣国のガボンからの移住民も14万人ほど北部に居住している。また、ネグリロ系先住民も東部の湿地帯の森林で、伝統的な狩猟採集の生活様式を残している。バントゥー系諸族のうち、ビリがロアンゴ王国、スンディがカコンゴ王国を形成した。またコンゴ王国の解体後、バコンゴも北上して定住した。

 奴隷貿易の時代に大量の人口が奴隷として運び出された後遺症が、人口密度の希薄さに表れている。また、1920年代にはコンゴ大西洋鉄道の建設工事のため、村落部から大量の住民が徴発され、多数が強制労働によって死亡するとともに、人口移動の傷跡が社会の根底部に残ったといわれる。これらに原因した国土の荒廃が、比較的早い時期に反植民地運動が起こり、第二次世界大戦後はその運動が共産主義的色彩の強いものになった理由と考えられている。

 義務教育が進んでおり、6歳から16歳までの児童・生徒の就学率は、アフリカ諸国でも高い水準にある。1990年には、小学校の生徒50万3000人、教師7626人、中学校の生徒17万3000人、教師4774人を数える。さらに、技術専門学校、教員養成学校のほか、ブラザビルには1972年に創設された大学があり、1万2045人の学生が学んでいる。キリスト教の布教が浸透しており、人口の約半分はキリスト教徒(うちカトリックが80%)である。イスラム教も2%を占める。海岸地方にはミッション・スクールが多く分布している。公用語はフランス語であるが、ラジオやテレビでは、フランス語、リンガラ語、コンゴ語の番組が製作されている。

[赤阪 賢]

日本との関係

対日貿易は、自動車、鋼管・板、魚缶詰や電化製品などの輸入が789万ドル、木材、コバルト・マットなどの輸出が835万ドルの実績がある(1997)。1993年には、日本から道路整備のため22万ドルが無償供与された。経済協力に比べて技術協力はあまり進んでいない。

[赤阪 賢]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コンゴ共和国」の意味・わかりやすい解説

コンゴ共和国
コンゴきょうわこく
Republic of Congo

正式名称 コンゴ共和国 République du Congo。
面積 34万2000km2
人口 575万9000(2021推計)。
首都 ブラザビル

アフリカ大陸中西部の国。北はカメルーン,中央アフリカ共和国,東と南はコンゴ民主共和国,西はガボン,南西はアンゴラのカビンダ州と国境を接し,一部は大西洋に臨む。国土の約半分は熱帯雨林のコンゴ盆地,南西部はクイルー川流域平野,中南部およびガボンとの国境地帯は山地と高原サバナである。全般的に高温多湿で,ブラザビルの年平均気温は 25℃。年降水量 1367mm。先史時代の住居跡があり,元来ムブティ族(いわゆるピグミー)の居住地であったが,15世紀頃コンゴ族が侵入して王国を建設。1483年ポルトガル人がコンゴ川河口にいたり,16~18世紀にはポルトガル人の主導権のもとに奴隷貿易が行なわれた。1880年,ピエール・ブラザプールマレボに到達,テケ族(バテケ族)の王と協定を結び,1882年フランス議会がこれを承認,フランス植民地となり,フランス領コンゴと呼ばれた。1889年ガボンを編入,1903年から中央コンゴと呼ばれるようになり,1910年,ほかの 2地域と連合して形成されたフランス領赤道アフリカの一部となった。1946年フランス議会に議席を獲得,1958年フランス共同体内の自治共和国となり,1960年コンゴ共和国として独立。1968年憲法を改正,社会主義国家となり,1969年コンゴ人民共和国と改称。1991年マルクス主義を放棄,複数政党制に移行し,再び共和国となった。産業は自給農業が主で,商品作物はサトウキビ,タバコ,アブラヤシ,ナンキンマメ,コーヒー,カカオなど。地下資源は石油のほか天然ガス,カリ鉱石,鉛,亜鉛などがあるが,石油を除くと開発はあまり進んでおらず,輸出の大半は原油,木材が占める。東部国境のウバンギ川とコンゴ川が,ブラザビルとポアントノアールを結ぶ鉄道とともに交通の大動脈をなす。住民の大部分はバンツー語系諸族で,コンゴ族,テケ族など約 15の種族に分かれる。そのほか少数のムブティ族も居住。国民の半数は伝統宗教で,ほかはキリスト教と少数のイスラム教。公用語はフランス語だが多数のバンツー方言が広く用いられる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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