ブリヤーチア(読み)ぶりやーちあ(英語表記)Бурятия/Buryatiya

日本大百科全書(ニッポニカ)「ブリヤーチア」の解説

ブリヤーチア
ぶりやーちあ
Бурятия/Buryatiya

ロシア連邦中部にある共和国。社会主義時代の1958~91年はブリヤート自治ソビエト社会主義共和国Бурятская АССР/Buryatskaya ASSRであったが、ソ連崩壊後の92年ブリヤーチア共和国Республика Бурятия/Respublika Buryatiyaとなった。東シベリア南部、バイカル湖の東方から南方にかけて位置する。面積35万1300平方キロメートル、人口103万8000(1999)。首都はウラン・ウデ。全体として山がちで低地は少なく、最低のバイカル湖岸でも標高455メートル。南西部はとくに高く、最高所は3491メートルのムンク・サルディク山。バイカル湖に沿う諸山脈も高度2000メートルを超える。東部は1000メートル前後の高原となっている。山脈の間の諸所に広い盆地があり、その多くはステップ(短草草原)または森林ステップで、主要な農業地域である。気候はきわめて大陸的で、平均気温は1月零下約24℃、7月約18℃。年降水量は平地で250~300ミリメートル、山地で500ミリメートル。川はエニセイ川水系(おもにバイカル湖)とレナ川水系に属する。約300の鉱泉がある。国土の5分の4は針葉樹林に覆われ、南部と中部にはステップと森林ステップがある。

 住民はロシア人69.9%、ブリヤート人24.0%、ウクライナ人2.2%、タタール人1.0%などである(1989)。主産業は原料資源採取およびその一次加工である。その主要部門は、鉱業(亜鉛、鉛、カドミウムおよびインジウムを含む原鉱石、金、タングステンモリブデン)で、そのほか林業、木材加工業、セルロース・パルプ製造、発電も盛んである。軍需部門を主とする機械製造業(航空機製造、造船、通信機製造)も発展してきた。農業では、乳・肉用家畜、ヒツジヤギ、ウマの飼育、養豚、養鶏作物では、穀物、ジャガイモ、野菜の栽培が盛んである。北部には、1984年に完成したバム鉄道が通じている。

[三上正利・上野俊彦]

歴史

居住の歴史は旧石器時代にさかのぼるが、モンゴル系のブリヤート人が登場するのは13世紀ごろのことである。その主要部族であるブラガート、エヒリト、ホリンツィなどはすでにこのころから存在していたが、彼らが一つのブリヤート民族に融合し、独自の言語をもつに至るのは17~18世紀のことである。17世紀、コサックを先頭とするロシア人がこの地方に進出してくると、土地を奪われ、毛皮税(ヤサーク)に苦しめられたブリヤート人は激しく抵抗するが、世紀末には全ブリヤート地方がロシアに併合される。ロシア政府は産業を奨励し、18世紀末には学校教育を始めるなどある程度この地方の発展に努めたが、抑圧と収奪の構造は基本的には変わらず、とくに19世紀末~20世紀初頭の地方改革に伴う土地の没収策は深刻で、ブリヤート人は大反乱をもってこれにこたえた。十月革命後の1918年2月ソビエト政権が成立したが、夏には日本軍が後押しするセミョーノフ軍が一部のブリヤート人の支持を得て進出し、ソビエト政権は倒された。同8月には日本軍が、翌年4月にはアメリカ軍が相次いでこの地方を占領した。占領軍は20年3月赤軍によって撃退され、21年4月には極東共和国内にブリヤート・モンゴル自治州が、翌年1月にはロシア共和国内にもブリヤート・モンゴル自治州が成立した。日本軍のシベリア撤兵後の22年11月極東共和国は廃止され、翌年5月両自治州は合体してロシア連邦社会主義共和国を構成するブリヤート・モンゴル自治ソビエト社会主義共和国となった(首都ベルフネウジンスク、1934年にウラン・ウデに改称)。1958年ブリヤート自治ソビエト社会主義共和国となり、1991年5月にはブリヤーチア・ソビエト社会主義共和国に昇格した。さらにソ連崩壊(1991年12月)後の92年4月、政体を変更して共和国となり、以後ブリヤーチア共和国となった。

[栗生沢猛夫]

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