改訂新版 世界大百科事典 「ブリヤート共和国」の意味・わかりやすい解説
ブリヤート[共和国]
Buryat
ロシア連邦内の共和国。旧ソ連邦ロシア共和国内の自治共和国であったが,1991年ソ連崩壊とともに共和国として主権宣言を行った。面積35万1300km2,人口98万1200(2002)。首都はウラン・ウデ。南シベリアに位置し,バイカル湖の東部と南部を占め,西はイルクーツク州およびトゥーバ共和国と,南はモンゴルと接している。山がちの地形で,国土のなかでいちばん低いバイカル湖畔でも標高455mである。気候は厳しい大陸性で,冬は長くて寒く,雪は少ない。夏は短く暖かい。1月の平均気温は-24~-25℃,7月は17~18℃,年間降水量は山岳地帯で300~500mm,それ以外で250~300mmである。
国内の民族構成はブリヤート人24%,ロシア人70%,ウクライナ人2.2%,タタール人1%など(1989)となっている。産業面では,ウラン・ウデを中心に航空機,機関車,車両,電機などの機械工業,セメントなどの建築資材,木材加工や食肉,牛乳などの畜産品加工が発達している。農業面では羊,牛,馬,豚などを主とする牧畜が圧倒的な位置を占め,バイカル湖では漁業も行われている。また,タングステン,モリブデンの産出でも有名である。
歴史
この地域にはすでに13世紀からモンゴル系の諸部族が居住していたが,それがブリヤート人(ブリヤート族)として一つの集団を形成するのは17世紀末ごろだったと考えられる。17世紀初頭からコサックを先兵としてロシア人の進出が始まったが,ブリヤート人の抵抗も激しく,この地域全体がロシア領となったのは17世紀の終りごろであった。ロシア帝国の支配下に組み入れられたブリヤート人は〈異族〉として差別的な扱いをうけるとともに,強制的キリスト教化政策の対象となった。19世紀末には,移民用の土地を確保するためにブリヤート人の土地をとりあげる政策がとられ,ブリヤート人は東部で土地の36%,西部で53%を失った。これに対するブリヤート人の反抗は激しく,1904年には西部の地域に戒厳令が発せられたほどであった。十月革命・内戦期にはブリヤート人の一部はモンゴルとの統一を求めて,日本が後押しをしていた反革命のG.M.セミョーノフ軍の側に立って〈大モンゴル国〉の実現をめざしたが成功しなかった。この地域は干渉戦の舞台となり,18年夏にはセミョーノフ軍の,次いで日本軍,アメリカ軍の支配下におかれた。20年に赤軍が奪回し,21年には極東共和国内に,22年にはロシア共和国内に,それぞれブリヤート・モンゴル自治州が成立した。極東共和国の廃止に伴い,23年5月この両者が合体してブリヤート・モンゴル自治共和国が成立した。この後もモンゴルとの一体化を求める潮流は共和国内に根強く残っていたが,現実には,37年に共和国の西部と東部の合計6地区がロシア共和国に移管されて,シルカ川の支流アガ川流域にアガ・ブリヤート民族管区(面積1万9000km2,人口7万7200,1993。主都アギンスコエ),アンガラ川上流にウスチオルダ・ブリヤート民族管区(2万2400km2,13万5900,1993。主都ウスチ・オルディンスキー)が別に設置されたり(のちそれぞれ自治管区と改称),58年に共和国の名称から〈モンゴル〉の文字が取り去られ〈ブリヤート共和国〉となるなど,逆の動きのほうが強まった。91年の共和国への移行のときにも〈モンゴル〉の名は回復できなかった。
→ブリヤート族
執筆者:青木 節也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報