シャーロットCharlotte Brontë(1816―55)、エミリーEmily Brontë(1818―48)、アンAnne Brontë(1820―49) イギリスの女流小説家姉妹。ヨークシャー州ソーントンのイングランド教会牧師の、それぞれ三女、四女、五女として生まれる。アンの生後3か月のときに、父が同州西方の小村ホーワースの牧師に任命され、一家はそこへ移った。ここは荒涼とした丘の広がる貧しい村で、その外れに教会と牧師館(現在は「ブロンテ博物館」となっている)が建っていて、姉妹たちは幼い時代からここで生活を送った。1821年に母が死んだのちは伯母に育てられた。24年シャーロットとエミリーは上の2人の姉とともに、近くの牧師の娘を安く預かる寄宿舎制度の女学校へ送られた。しかし費用が安いかわりに食事もろくに与えないひどい待遇のため、上の2人は病に冒されて翌年死亡、驚いた父はシャーロットとエミリーを家に連れ戻した。三姉妹は別の学校に入学するが、人間嫌いで恥ずかしがりやのエミリーだけは、すぐにホームシックにかかり帰宅した。父がひとり息子のパトリックPatrick Branwell(1817―48)のために買ってきた兵隊人形で遊びながら、みんなでいろいろな空想の物語をつくりだし、彼女らの文学の芽生えとでもいうべきものが、このころから生まれた。
1842年にシャーロットとエミリーは、ベルギーの首都ブリュッセルの女学校に入り、のちにシャーロットはそこの助教師となり、校長のエジェに恋心を抱くが実らず、結局2人とも故郷に帰る。46年に3人の詩集を自費出版するがまったく反響なく、わずか二部しか売れなかった。またシャーロットが『教授』、エミリーが『嵐(あらし)が丘』、アンが『アグネス・グレイ』と、それぞれ小説を書いたが、どこの出版社からも見向きもされなかった。しかしシャーロットはそれにもめげず、『ジェーン・エア』を書き、47年にロンドンで出版したところ、たちまちベストセラーとなった。これに反して同年やっと出版の運びとなった『嵐が丘』『アグネス・グレイ』はまったくの不評であった。
当時は女性が小説を書くことが珍しかったころなので、これらの作品はすべて男性名のペンネームで出されたため、読者はもちろんのこと、原稿を受け取った出版社すら初めのうちは男の書いたものと考えていた。1848、49年とエミリー、アンが相次いで未婚のまま死亡、1人残されたシャーロットだけがロンドン文壇で新しい女流作家として名声を得、ブリュッセルの女学校での体験をもとにした『ビレット』(1853)などの小説を発表し、54年に父の教会の副牧師と結婚したが、翌年彼女も結核で世を去った。ともに薄命であったが、さまざまな悲運にも屈せずに、その才能の花を咲かせた三姉妹は、現在では広く世界中の読者から愛され、日本でも明治時代に紹介されて以来、多くの愛読者をもつ。
[小池 滋]
『阿部知二著『ブロンテ姉妹』(1957・研究社出版)』▽『野中涼著『ブロンテ姉妹』(1978・冬樹社)』
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