知恵蔵 の解説
プミポン・アドゥンヤデート国王
29年に父マヒドン親王が病死、32年にはタイが立憲革命で絶対王政から立憲君主制に移行したこともあり、幼少期からは主にスイスで過ごした。スイス・ローザンヌ大学で政治学や法学を学んでいた46年6月に、兄のアナンタ・マヒドン国王(ラマ8世)が急死し、18歳で跡を継いだ。王位継承後は学業のためにスイスに戻り、48年に自動車事故で右目を失明するまで大学で学んだ。50年4月、王族でいとこのシリキット王妃と結婚、同年5月に戴冠式を行い、50年代初めからはバンコクに定住した。
王位を継承した当初は、立憲君主制の下、現在のような絶大な権威はなかったが、57、58年にクーデターを起こし、59年に首相となったサリット将軍が、国王の権威を自らの政治的正当性の後ろ盾にしようと、60年代以降、王室行事の復活などを進め、徐々に国王は国の発展、安定の中心的存在となっていった。
60年代は精力的に外遊、70年代以降は国内各地を回り、国民と触れ合った。地方の発展を目的に農地開発や灌漑(かんがい)整備、少数民族支援などの「国王プロジェクト」に取り組み、国民の支持を集めた。87年には「大王」(Great King)の尊称を奉呈された。
クーデターや大規模な反政府デモなどが起こった時は、たびたび事態を収拾した。軍・警察が民主化運動を進める学生たちを弾圧した73年の「血の日曜日事件」では学生側に立ち、軍事政権トップを国外追放した。軍が反政府デモ隊に発砲し、死傷者が出た92年の「5月流血事件」の際は、双方の指導者を王宮に呼び、和解するよう説得した。王座の前に2人をひざまずかせた映像は国内外で放送され、その影響力を示した。だが、近年続いている農村を地盤とするタクシン元首相派と、主に都市部で支持されている反タクシン派との衝突などの際には、調停や事態の収拾に乗り出すことはなかった。
2009年頃から体調を崩し、14年に胆嚢(たんのう)摘出手術を受けた。16年10月13日、療養中だった首都バンコクの病院で、88歳で死去した。在位期間は70年4カ月で、死去直前には、世界で現役の王族・皇族の中で最長となった。多趣味で、生前はサクソフォンの演奏やジャズの作曲、絵画や写真などをたしなんだ。東南アジアのヨットの競技大会で優勝したこともある。
王位は王位継承権第1位のワチラロンコン皇太子が継ぐ見通し。タイ首相府は16年10月14日から1年間を服喪期間とすると発表した。
また、国王と日本の皇室との親交は深く、1963年に国賓として日本を公式訪問、昭和天皇と会見した。天皇、皇后両陛下は皇太子、同妃だった翌64年、昭和天皇の名代としてタイを訪問しており、91年の即位後にも初の海外訪問先にタイを選ばれ、2006年にバンコクで行われた国王の即位60周年記念式典に参列された。
(南 文枝 ライター/2016年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報