ヘレニズム美術(読み)ヘレニズムびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「ヘレニズム美術」の意味・わかりやすい解説

ヘレニズム美術 (ヘレニズムびじゅつ)

ヘレニズム〉という語がもつ概念の多様さは,美術史の用語の上にも反映し,しばしば〈ヘレニズム美術〉はギリシア美術と他民族の美術の統合様式を意味する言葉として使われることがある(たとえば〈ガンダーラにおけるヘレニズム美術〉などという場合(ガンダーラ美術))。しかし,他民族美術のギリシア化という現象は,ローマ帝政時代になって初めて顕著に現れたものであり,19世紀ドイツの歴史家J.G.ドロイゼンの《ヘレニズム史》に始まり,今日一般化している時代概念としての〈ヘレニズム〉とは,関係がない。したがってここで問題にするヘレニズム美術は,クラシック時代(前450-前320)の後に続く,ギリシア美術の最晩期をいい,アレクサンドロス大王没(前323)後から最後のヘレニズム王朝プトレマイオスの崩壊(前30)までの間のギリシア人を中心とした美術を指す。

 ローマ帝政初期の著述家大プリニウスは,ギリシアの美術は前300年ころに消滅し,前160年ころに再び興ったと述べている(《博物誌》第34巻)。このような古典主義的見方は後の人文主義者たちに受け継がれ,永い間,ヘレニズム時代は,ギリシア美術の衰退期と見なされてきた。この見解を根本から変えたのが,アッタロス王国の首都ペルガモンの遺跡の発見(1878)であった。ここに出土した建築とそれを飾っていた彫刻の遺品は,クラシック時代のものとは異なる,独自の価値をもつ力強い美術様式を示していた。ペルガモンの発見によって光をあてられたヘレニズム美術の研究は,その後の新しい発掘,あるいはそれまで忘れられていた作品を再認識することによってさらに深められ,今日においては,ほぼその全容が明らかにされている。

ペルガモンの建築群は,そのほとんどがアッタロス1世(在位,前241-前197)およびエウメネス2世(在位,前197-前159)の時代に築かれている。アクロポリスとされた南北に走る荒々しい山地(標高333m)は,多大な労力をかけて数面の段地に切り開かれ,その上に,父神ゼウスにささげた巨大な祭壇,女神アテナの神殿,20万巻の蔵書を誇った図書館,宮殿,倉庫などが建ち,西側の急な斜面には劇場が設けられていた。これらの建造物は,自然を考慮に入れた壮大な構想に基づき,全体の秩序の中で整然と配置されていた。個々の建物をそれぞれの自律性を超越した全体の秩序に従属させることは,ヘレニズム時代の建築思想の特徴であり,それは他の聖域(リンドスのアテナの聖域,コスのアスクレピオスの聖域)や都市計画(プリエネ,ミレトス)にも見ることができる。また,周囲の自然を意識する建築思想は,他方では,風景と建造物を抒情的に調和させて,牧歌的な景観をつくり出すこともあった(サモトラケのカベイロイ(航海者の守護神)の聖域)。神殿建築においては,イオニア式コリント式が多く用いられた。小アジアの各地には,イオニア式による大規模な二重周柱式(ディプテロス式)神殿が次々と建てられた(エフェソスアルテミス神殿,ミレトス近郊ディデュマDidymaのアポロン神殿)。また,二重周柱式から内側の柱列を除いた擬似二重周柱式(プセウド・ディプテロス式)の新しい神殿形式も登場した(マイアンドロス河畔マグネシアのアルテミス神殿)。アテナイのゼウス・オリュンピオスの神殿(オリュンピエイオン)は,巨大な二重周柱式神殿にコリント式円柱を用いた最初の例であった。今日各地に残るギリシア劇場のほとんどは,ヘレニズム時代に新しく築かれたか,改築されたものである。その多くは,高い演台(ロゲイオン)をもつモニュメンタルな舞台建築を備えていた(エフェソス,プリエネ)。この時代には,公共建築だけでなく市民の住居も華美を競うようになった。円柱で囲まれた中庭をもつ住宅形式が生まれ,床面がモザイクで飾られることもあった(プリエネ,デロス)。

ペルガモンの〈ゼウスの大祭壇〉(ペルガモン美術館)は,コの字形の基部の周囲を高さ2.3m,長さ約120mをもってめぐる浮彫フリーズで飾られていた。巨人族(ギガンテス)を倒すオリュンポスの神々を描く,ほとんど丸彫に近い浮彫像の躍動感あふれる力強い形態は,まさにヘレニズム彫刻の真髄を示している。この祭壇浮彫に匹敵する単独像としては,サモトラケに出土した勝利の女神像,いわゆる《サモトラケのニケ》(ルーブル美術館)をあげることができる。この像は,前191年アンティオコス3世との海戦に勝利を収めたロドス人が,当地の聖域に奉納したものであった。あふれる激情の表現とともに,リアリズムもまたヘレニズム彫刻の特徴であった。それは,多くの肖像の傑作を生んだ。ローマ時代のいくつかの模刻で伝えられているアテナイの雄弁家デモステネスの像は,この時代の彫刻家が,いかに人間の内面を具象化することができたかを語っている(コペンハーゲン,ニ・カルルスベルク彫刻館ほか)。これら模刻像の原作は,前280年,すなわちデモステネスの死後42年を経て制作されたものではあるが,そこには,志を果たすことなく世を去った悲劇的な愛国者の意思と性格が,簡潔な形でもってみごとに表現されている。肖像彫刻の成果は,アレクサンドロス大王をはじめ歴代の権力者のプロフィルを浮彫で表した貨幣の上にも見ることができる。ヘレニズム時代には,モニュメンタルな大彫刻と並んで小さな彫刻作品も多くつくられた。ボイオティア地方の都市タナグラや小アジアのミュリナで大量につくられた素焼土(テラコッタ)製小型女性像(タナグラ人形)は,それ自身芸術作品としての価値を有するだけでなく,失われた大彫刻の様式を探るうえにも,また当時の風俗を知るうえにも,貴重な資料となっている。前2世紀の半ばころからギリシア美術は,クラシックへの回顧の傾向を強める。それは,押し寄せるローマ化の波へのギリシアの最後の抵抗であったといえよう。この擬古典主義の流れの中で,クラシック時代の高名な作品を手本としたバリエーションが多く生まれた(たとえば《ミロのビーナス》。ルーブル美術館)。ヘレニズム彫刻の最後の傑作として《ラオコオンと息子たち》の群像(バチカン美術館)を挙げることができよう。しかしそのかたくななまでに意図された正面性や,過剰なまでのパトスは,この群像の作者が,すでにローマの趣味に奉仕する美術家であったことを物語っている。

ヘレニズム時代には絵画の制作が盛んであり,とくに前4世紀後半から前3世紀初頭にかけては優れた画家が輩出したことは,古代の文献などから知られている。しかしそれらの作品は,今日ことごとく地上から姿を消しており,われわれはただ,ポンペイなどに残されたローマ時代のフレスコ画や床面モザイクの中に,それら失われた絵画の模作を探し出し,それらを通して,ヘレニズム期の原画の様式をうかがい知ることができるだけである。ポンペイに出土したアレクサンドロスとペルシア王ダレイオス3世の戦いを描いた床面モザイク画,通称《アレクサンドロスのモザイク》(ナポリ,カポディモンテ美術館)は,前317年ころの原作を精緻なモザイクで再現したものである。そこには,髪を振り乱して突進する若いマケドニアの王と驚愕して戦車を反転させるペルシア王の一瞬の動きが,大胆な遠近法と入念なリアリズム,それに光と影の明暗の効果によって,劇的に表現されている。他方ボスコレアーレのある別荘の寝室の壁面は,人物がまったく登場しない建物や風景の絵で飾られていた(メトロポリタン美術館)。これら人影のない,透視図法を駆使して描かれた幻想的な壁画は,ヘレニズム時代の演劇舞台の背景画を手本にしたものであったと考えられる。また,ローマの共和政時代の住宅跡から出土した,オデュッセウス物語からのいくつかの場面を,小さな人物像が点在する風景画として描いた壁画(バチカン美術館)は,アレクサンドリアのプトレマイオスの宮廷で制作されていたパピルスの絵巻物からの写しであったと想像される。前3世紀のギリシアのオリジナルな絵画技法を伝える貴重な遺品に,北ギリシアのパガサイで発見された一群の彩画墓碑がある(ボロス,考古学博物館)。そこには,死者の姿や死にまつわる神話的主題が,パステル調の淡い色彩を用いた,つつましい写実主義で描かれていた。モザイクは,クラシック時代には自然の小石を用いていたが,この時代になると,自然石を切断してつくった四方形の材料(テッセラtessera)が使われるようになる。その結果,細部まで入念に仕上げられた,より多彩な作品がつくられるようになった(デロス,ペルガモン,アレクサンドリア)。かつてギリシア絵画芸術において重要な役割を果たしていた陶器画は,前4世紀の中葉にアッティカの窯業が衰えるとともにその役割を終えた。ヘレニズムの陶器は,象徴的な装飾文様が描かれる(ハドラHadra陶器)か,あるいは多くの場合,雌型を用いたステレオタイプの浮彫で飾られた(メガラ陶器,サモス陶器)。
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